万能に統一した。情報局の陸海軍人が出版物統制にあたって、自分たちの書いたものを出版させて印税をむさぼりながらすべての平和、自由を窒息させた。文学報国会が大会を陸海軍軍人の演説によって開会し、出席する婦人作家はもんぺい姿を求められたというようなことは日本の文学史の惨憺たる一頁であった。
わたしは四一年一月から一九四五年八月十五日まで、一切の書くものを発表禁止された。その間に四一年十二月九日から翌年七月末、巣鴨拘置所で病気が悪化し意識不明になるまでとめておかれた。少し眼も見えるようになった一九四三年の春から秋にかけて、調べのつづきということで、警察や検事局へよばれた。警察では、「三月の第四日曜」という小説の題に、何か特別の意味があるだろう、という問いさえうけた。三月には四度日曜がある。三十一日の月だから。彼等はそれさえ、疑いの種になる。その頃の特高警察の仕事のやりかたというものは、常識をはずれ、知識をはずれ、正気の人間に出来ることではなかった。
「今朝の雪」は婦人雑誌のためにかいた作品で、柔軟なものであるけれども、文学報国会は理由を告げず年鑑作品集に入れることを拒んだ。作品を収録するからと云って、私に送らせたのに。
わたしの母は一九三四年六月に、歿した。わたしがその年の一月から警察にとめておかれていたときに。わたしの父は一九三六年一月、亡くなった。わたしが市ヶ谷刑務所にいたとき。直接作品にあらわれてはいないが宮本の父は一九三八年六月に亡くなった。宮本は巣鴨拘置所で拘禁生活の六年目、わたしは執筆を禁止されていた年に。父母と、こういう状況の下に死別した人々は、その頃の日本にわたしたちばかりではなかった。拘禁生活をさせられていた人々ばかりでなく、どっさりの人は戦地におくられて、通信の自由でなかった家郷の愛するものの生死からひきはなされて、自分たちの生命の明日を知らされなかった。
きょう読みかえしてみると、日本の戦争進行の程度につれて、わたしの文章はふくみ声になって来ている。云いたいこと、表現すべき言葉がぼかされたり、暗示にとどまったり、省略されたりしている。「鈍・根・録」の冒頭の文章では警察と留置されていた自分の関係がぼやかされていて、きょうの読者の理解には不便である。「わが父」のはじめも、父の葬儀のため市ヶ谷刑務所から仮出獄したわたしが再び刑務所に戻って、裸にされて
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