年と翌年の初夏まで、私はかいたものの発表が出来なかった。中野重治も同じようなことであったと思う。
「その年」という小説は、こういうひどい時期の記念の作品となった。『文芸春秋』が、一九三九年の春、もうそろそろ私も作品発表が可能らしいという見込みで、「その年」の原稿を印刷にする前に内務省の内閲に出した。やがて、内閲から戻されて来た原稿をもって『文芸春秋』の編輯者が目白に住んでいたわたしのところへ来た。そして、当惑して原稿をさし出し、何しろ赤鉛筆のスジのところはいけないって云うんですが、ということだった。原稿をあけてみて、わたしはおこるより先に呆れ、やがて笑い出した。原稿には、実によく赤鉛筆がはいっていて、それは各頁、各行だった。赤鉛筆のとぎれているところをひろって読めば、そのところは、ただ「そうしているうちに」とか「であるはずなのに」という風な箇所だった。はじめから赤鉛筆を手にもって、べたスジをひくことにして読みはじめたものであることが一目瞭然であった。赤スジのないところには、文章さえのこっていないのだから、小説として発表が出来るわけもない。「その年」のようにおだやかな作品でさえもそういう取扱だった。即ち小説は一九三九年の九月にかいて十一月の中央公論に発表された「杉垣」が、禁止以来はじめての作品である。それまで、ちょっとした随筆を二三篇かき、その一つであった「清風おもむろに吹き来つて」という随筆がきっかけとなって、明治から現代までの文学史と婦人作家の研究にとりかかった。「その年」の原稿は、日本の言論抑圧の標本として、赤鉛筆の姿をそのまま、いつか多くの人の目にふれる機会をもつだろう。
「朝の風」という作品は、作者が心いっぱいにもっている思いを、そのまま自然に表現の出来ないために、まるで猿ぐつわのすき間から洩れる声のようになっている。口だけ動かしているが声がききとれないような作品とも云える。見える見えない周囲の圧迫は、こんな不具な作品しかうませなかった。こういう事情で作品を歪まされたのは、わたし一人のことではなかった。
こういう事情でともかく作品の発表が出来たのは、一九三九年も秋になってからであったのに、一九四一年には又もや一月から、発表禁止をうけた。太平洋戦争に突入する準備を強行していた日本絶対主義の軍事力は、極度に言論圧迫を行って、科学でも、文学でも、子供の歌まで侵略
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