もとで苦しむ小市民の魂の反抗の影絵でしかなかった。社会主義の社会の建設と、その中からうまれる芸術、文学は、よしやはじめはアンデルセンの物語にあるように「みっともない白鳥のひよこ」であるかもしれないけれども、それは遂に白鳥として成長しずにはいられない。はじめから真白くて可愛くて愛嬌のある雛が、家鴨として以外の大人の鳥にはなれないように。
作者は、社会主義の社会とその文学に単な合理性や今日では正義と云われている社会化された常識を期待するばかりではない。深い深い人間叡智と諸情感の動いてやまない美を予感する。なぜならば、人類の歴史は常に個人の限界をこえて前進するものである。文学の創造というものが真実人類的な美しい能動の作業であるならば文学に献身するというその人の本性によって、人類、社会が合理的に発展前進しようとする活動に共働しないではいられない。創造そのものがきのうの自分から生きぬけて明日にすすむことでしかないのだから。現代において社会主義の社会と文学とは、新しい美感の母胎である。
作者は一九三〇年の十一月に日本へ帰って来た。じき、当時のナップに加盟していた日本プロレタリア作家同盟に参加した。そして精力的にソヴェトの社会生活の見学記、文化・文学活動の報告をかいた。一九三〇年の暮から一九三二年いっぱいに書かれたソヴェト紹介の文章は、『女人芸術』『戦旗』『ナップ』をはじめとして『毎日新聞』『改造』そのほか記憶することが困難なほどの数にのぼった。
その数多いソヴェトに関する執筆のうち、単行本としてまとめられたのは僅に『新しきシベリアを横切る』一冊であり、それは全部の十分の一にも足りなかった。一九三二年の三月後から一九四五年八月までつづいた日本のファシズム権力は治安維持法と情報局の取しまりとで社会主義という文字そのものが印刷物にあることを禁じ、当然ソヴェト事情の公正な紹介も許さなかった。その期間ソヴェトに関して出版されたものは、軍、外務省の情報機関を通じたものであり、構想敵の実体調査であった。反人民的な本質に立つものしか許されなかった。
この十数年間は、作者の生活波瀾もはげしく、度々の検挙や投獄で、三二年ごろ書いたソヴェト報告は四散したままにすてておかれた。このたび、幾人かの友人たちの熱心な協力によって、その大部分が集められた。そして、選集第八巻、九巻をみたすこととなった。
こんにち、これらの文章をよむと作者自身を感動させる素直さと、正直さが全篇にあふれている。三十一、二歳だった一人の女として、ある程度文学の仕事に経験を重ねている作家として、中條百合子は、全身全心をうちかけて、「新しい世界」のカーテンをかかげ、その景観を日本のすべての人にわかとうとしている。自分の感動をかくさず、人々も、まともな心さえもつならば、美しい響きは美しいと聴くであろうという信頼において。
ソヴェト紹介の文章そのものの率直さ、何のためらいもなく真直じかに主題にふれ共産党の存在にふれている明るさが、この事実を直截に示している。それからあとプロレタリア文化文学運動の圧殺されたのち、『冬を越す蕾』『明日への精神』が、辛うじて出版された時代の文章は、どうだろう。それはすべて奴隷の言葉、奴隷の表現でかかれなければならなかった。文章は曲線的で、暗示的で、常に半分しか表現していない。文章の身ぶりで主題のありどころをさとらそうと努力されている。そういう表現が強いられていたころ、もと書いたソヴェト紹介の文章は、作者自身にとってその直截さがまるであつい鏝《こて》のようにジリッときつく感じられた。そのみじんも暗さのかげのない文章の爽やかさ、躊躇なさに、書いた作者が自身への反撥をさえ感じた。
このことは、些細な経験のようであるが、日本の民主的な精神が歩いて来た歴史のひとこまとして意味の小さくないことだと思う。一九四五年の八月が来て、二年三年とたって、こんにちの情勢の下で自分が二十年前にかいたソヴェト紹介をよみかえして見ると、嘗ての暗黒の時に感じた神経的な反撥は一つも感じられない。その時代の理解の素直さが、自然にうけとれる。明るさがうそ[#「うそ」に傍点]でないことがすらりと共感される。日本の人民生活にそこまで息づきの楽なところもでて来たことがわかる。同時に、日本において新しい民主生活を確立するためには、どんなに複雑で国際的な性質をもつ障害があるかということも、具体的にはっきりしつつある。日本、中国、朝鮮をこめての東洋と西欧の民主主義をうちたて、世界の平和を守ろうとするすべての人々は、めいめいの日常生活のなかに、こまごまとした形ではいりこんで来ている問題として、ファシズムに反対し反民主的な侵略戦争に反対しなければ平和も民主主義もあり得ないことを理解しはじめている。人民的な民主主義
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