ソヴェトの人々の生活において感受したばかりでなく、自分の内部的変化として自覚した。ソヴェトの人民が、自分たちの運命をみずから変えてゆく人々であるという事実の承認は、新しく文学が発展してゆく方向としての社会主義の文学を肯定させるようになった。トルストイは偉大であり、ドストイェフスキーの世界は五月の嵐のように多彩強烈である。けれども彼等は革命を理解しなかった。歴史のある時期におこる飛躍と質の変換を理解しなかった。彼等の人間性一般は階級のバネをもっていない。
 見事なルイ十六世式の椅子に近代のバネがかけているように。
 一九〇五年からあとのロシアの反動期を通じて、チェホフが一見しずかそうな彼の文学の底を貫いてもちつづけた科学性に立つ正義感(彼をサガレンの流刑地生活調査におもむかせ、「桜の園」においてそのように新しい生活へ憧れさせ、生産と労働と民衆生活への関心)の水脈をつたわり、つつましいコロレンコが若いゴーリキーのうちに未来への期待をかけたその社会性、人民性に対する待望の樋をつたわって、一九一七年の「十月」のあと、ソヴェト・プロレタリア文学運動の生じた必然がのみこめた。社会が階級をもっているとき文学は階級性をふくまずに在り得ない現実がのみこめた。そして、まごころをもって芸術を愛し、人間の創造力に価値を見出すものであるなら、謂わば芸術至上の現実的過程としてさえも、ブルジョア社会の文学は自身の発展のために社会主義への方向をとるしかないことを確信するようになった。
 ロシアの革命の歴史をみると、そこには人類の宝のような優秀な無垢な人々の活動が見出される。同時に、その社会のあらゆる悪計と詭略と恥しらずを身にそなえたフーシエの徒輩も見出される。階級社会の力が面と面とをむけて格闘する革命の現実のうちにこそ、その革命の時代の最も典型的な諸事件と諸性格とがある。小市民的な日常と「個性」のうまやにとじこめられていた人類の伸びようとする精神は、二十世紀はじめのフランスのデガダニストたちのように、遂にわが身一つを破り分裂させることにおいてではなく、発展させられる方向が社会主義のうちにこそあるということがわかった。二十世紀に入ってから世界の文学は、絶えず自身を新しく生れかわらそうとして七転八倒しつづけて来たが、その意味では第一次大戦後におこったシュール・リアリズムさえも、古い資本主義社会の機能の
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング