そして、子の母となりながら、妻の永い病に精根つき果てたような良人へ気をかねて、その愛子をのこして家を去る決心にまで追いこまれなければならなかったということも、男の一生にはない女のあわれさであると思う。
 ロマン・ローランは、人間の社会にのこされる最後の不公平は、健康と病とであると云っているけれども、女はその最後の不幸の中にもう一つ女であるということからの不幸の匣《はこ》を蔵していることは、私たちを沈思させる事実だと思う。
 人々は、結婚について語るとき、相方とも健康でなければならない、という。私たちは自然な理解でそれはそうだと思う。どちらが弱くても不幸だから、とおだやかにうけがって考える。けれどもそのうけがいは平静でやや実感から遠くあって、実際の結婚の営みのなかで永い病と闘っている妻たちの不安、気くばり、恐怖とはまだまだはなれたものである。どんな妻も、今日の社会の常識にとりかこまれた現実の中では、自分が永い病をするよりは、良人の看護をする方がまだましだと思っているだろうと思う。それは切なく辛いにしろ、自分が病んでいるのでなければ、自分の堅忍や努力の力で、互の愛を守れる可能もある。相当愛に確信のある夫婦でも妻の方が永年の病にかかったとしたら、妻であるその人に向けられている劬《いたわ》り、憐憫、愛にかわりはないとして、良人のその態度に妻は決して赤子のように抱かれきってはいられまい。心理的にどこかで我が身をひいて考える。その心持には、病人がはたの親切をへりくだった感謝でうけるというのとは、おのずからちがって複雑なニュアンスがこもっているのである。
 思えば、妻は健かでなければならぬという常識の中に、何と深く動かしがたく、家というものにおける女の歴史的な立場とでもいうようなものがほのめかされているだろう。極端な対比というかもしれないが、昔の奴隷市でも女奴隷は美しい上に必ず強壮でなければならなかったにちがいない。病気という不幸が少くとも人間共通の不幸として、そこへ特別女であるために生じる一層の不幸というものが加わって来ないような生活をつくり出して行きたいと願う心を、私たちは自分の世代の願いとして、否定してはならないのだと思う。
 竹内てるよさんは、カリエスという病が不治であることのため徹也という愛児をおいて家を去り、貧窮の底をくぐって、今は、療養の伴侶であり、友である神谷暢氏
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