『健康会議』創作選評
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)主人公《ヒロー》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九五一年一月〕
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 十篇の応募作品をよんだ。出来・不出来はあるにしろ、そのどれもを貫いて流れているのは、日本の結核療養に必要な社会施設のとぼしさと、そこからおこる闘病の苦しく複雑な現実の思いである。ベティー・マクドナルドというアメリカの婦人作家が書いている「病気と私」の明快さ、諷刺をふくむ明るさが、鋭い対照をもって思い浮ぶようないまの日本の闘病の現実が描かれている。
 悲劇の原因として文学作品に結核が描かれるようになったのは、そう遠いことではない。シュニツラーの「みれん」森鴎外訳。小デュマの「椿姫」、日本の「不如帰」徳富蘆花。そして、これらの悲劇は、当時のヨーロッパでさえも結核という病気については、ごくぼんやりした知識しかもたれていなかったことを語っている。肺結核にかかった主人公《ヒロー》、女主人公《ヒロイン》たちは、こんにちの闘病者たちには信じられない非科学性で病気そのものにまけてゆき、やがて、社会の偏見にいためつけられきって、命をおとしている。
 トーマス・マンの「魔の山」は、スウィスの豪奢な療養所内の男女患者の生活を描いているが、この手のこんだ心理小説も、結核とたたかう地道《じみち》な人々の人生を語るものではない。
 わたしが、これをかいている机の上にのっている十篇の原稿は、これらの有名なむかしの小説と現代の結核についての認識の間にはっきりとした歴史のあゆみがあることをくりかえしている。これらの作品の中で、結核と戦争、民衆生活の貧困、療養のための社会施設との関係が見おとされているのは一つもない。人類の社会が、より健康に、より少い悲惨をもって営まれるために、結核菌はどのような方向で征服されてゆかなければならないかということが、すべての作品の底を流れて語られているのである。そういう意味でこれらの作品は、あたりまえの文学作品一般をよむ目とは、いくらかちがった角度からよみとられていいと思う。すなわち、結核に対する人間の新しい態度――より科学的により社会的に、人間を不幸にするこの細菌は退治られなければならないという態度をめやすとしていいと思う。気分や、雰囲気から描かれている
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