『この心の誇り』
――パール・バック著――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)燦《かがや》き
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四〇年九月〕
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私たちは、どんな本でも、自分の生活というものと切りはなして読めない。そして、どんな本を読んでも、最後にはその印象が落ちてみのる生活の土壤というものは、日本の社会のさまざまな特質によって配合され、性格づけられたものである現実も知っている。私たちは、植物のようにひとりでにその土壤から生えているのではなくて、力よわくとも一人の人間の女であるから、自分の生命の価値について冷淡ではあり得ない。よりよく生きたいという切望は、特別女の心の底深く常に湧き立っている熱い泉である。よしやその泉の上に岩のおもしがおかれて人目からその清冽な姿がかくされていようとも、また、小ざかしく虚無を真似て自分からその泉の小さい燦《かがや》きに目をそむけていようとも、やっぱりよく生きたい、という願望の実在は消されない。
よく生きたいという女の希望の面は多様だが、今日、若い世代に一番共通なのは、どうかして自分たち女が、実にいい愉しい妻であり、母であって、同時に自分自身の生活というものも持ってゆきたいという要望ではないだろうか。女であるから男を愛する自然さもわかっている。愛したものが互に生活を最も密接させたくて、結婚する必然の動きもわかっている。愛するものとの間に子供をもつのはどんなにうれしいことだろう。けれども、それらすべてのうれしいことが、女の今日の生活の現実では女が自分をみんなその生活のために献げつくしてしまわなければ獲られないものだとすると、若い女性の心には何かしら抵抗が生じると思う。何かしら漠然とした悲しみと不安と躊躇が生じる。果してそうしか女として生きる方法はあり得ないのだろうか、と。
パール・バックの「この誇らかな心」という小説は、生活の現実としてそういう課題を感じている今日の日本の読者にどんな感銘を与えているだろうか。
作者がこの一篇の女主人公として描き出しているスーザン・ゲイロードは、女のなかの女ともいうべき豊饒な、生活力に満ちた、彫刻の才能にめぐまれた一人の若い女性である。世界で一番いい妻になって、一番いい母になって、そして石や青銅で美しい像をつくって、世界の果まで旅行して、ああ私はありとあらゆることがしてみたいという溢れるような彼女の性格は、その土台が真摯な、ひたむきな素朴さ、純粋さにおかれていて、どことなくほかの女とちがった女とみられている。
地方の大学の老教授で、家庭生活では気づよい実際的な妻におされているスーザンの父が、可愛がって手ほどきしてやった彫刻への興味は、大学生活を終ったスーの生活の真髄からの欲望となって来ている。幼馴染で、謙遜で、スーザンの内面的な強烈さ、優秀さを十分評価しているマークとの結婚は、一人の男の子と女の子とを二人の間にもたらして、終りを告げた。マークはチフスで急に死んだのであった。しかし、マークはただチフスで命をおとしたのだろうか。医者が、「お気の毒ですが奥さん、御主人は一種の精力が欠けていたとでも言いましょうか――その――」と云ったマークの生への諦めは、彼の死に無関係ではなかった。彼のその悲しい諦めは何が原因であったろう。
スーザンは自分の心を偽らない生きかたをしているために、マークと自分との間の悲劇をもはっきりと見ていた。それは、彼女の彫刻への熱情である。
結婚するとき、マークはスーにとって本源的な彫刻への欲望を十分理解していた。それにもかかわらず、彼女がその仕事に熱中しある成功を獲てゆくと、良人としてのマークのひそかな苦悩は次第につのった。婚約時代にもマークはスーがおりおり自分の手をぬけて、どこか遠いところへ行ってしまう、そして自分の知らない人になってしまうと云って訴えることがあった。スーザンはそのたびにどんなに体じゅうで彼のその気持を忘れさせ、彼のものである自分を納得させようとしただろう。彫刻の教師であるディヴィッド・バーンスが彫刻修業のためパリに行けと云っても、スーは良人や子供たちとはなれては充実しない自分の生活感情をはっきり知っていて、その誘いに応じなかった。
スーザンは、自然でゆたかな一人の女として、愛する良人のマークなしで生きてゆける自分だとは思っていなかった。彼女は彼なしに生きてゆくことは出来ないのだ。けれども、彼だけでは満足出来ない。子供だけでも、家だけでも、両親だけでも、町だけでも、彼女は満足出来ない。けれども、彼女にはこのどれがなくても、自分の命の充実は欠けて感じられる。自分の仕事だけでも、やはり彼女には満足出来ないのである。
マークが、スーザ
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