という一つの部分に女の全面的な生活が集注され、妻としてあますところなく吸収されていなければならないというのは、女としてやはり何か苦しいところがある。
とり出してこのようにいえば分りやすいこのようなことが、現実の日常ではわからないことの姿で行われてゆくところに、歴史が示す段階の制約がある。
スーザンは、生活のあらゆる経験がただ無駄に消え去るものではないという感覚の中で、人類の前進への漠然とした信頼を示している。けれども、彼女は、人間が人間を理解してゆく輪がそんなに狭く小さくめいめいに主観的でしかないという悲しみが、何処から生じるのかというところまでその悲しみの原因を追究してはいない。そういう輪のせまく苦しい主観的な限界は、まだ私たちの社会生活がそのなかに生きる個人個人に本当の社会的共感、理解を可能にさせるほど前進し高められていず、一人一人の生活感情の主観のなかに大きくひろい社会のかげが映され生きられていないからであるという点までにふれて行ってはいないのである。
そう考えて来ると、スーザンが「私はいつも私であっていい」と思う、その私というもののなり立ちについて、作者がそこに或る一つの強い女の性格としてだけ扱っていることも、また、私たちを考えさせるところだと思う。「私」というものが抽象の言葉でなく日夜の現実に生きている実在であるからには、虚空に生存することは出来ない。スーザンにしろ、マークと結婚し、ブレークとの結合に入り、そして、これらの男たちと同じ時代、同じ社会の歴史を閲《けみ》しつつあるとすれば彼女としても性格が抽象に発動するのではなくて、彼女の生活の属している社会層の特徴や限界や歴史性をも私というもののうちにこめてもっているはずである。
私はいつも私であっていいのだ、という女によって意識された主張が、やがてそんな主張の必要がないほど女も社会関係の中での制約から解かれるまで、これからも永い年月叫びくりかえされて行かなければならないというのは、何と切なくまた意味ふかいことだろう。「この誇らかな心」を読むと、アメリカの社会が、女にここまでつよく生きさせる可能を与えている一方に、なおこのような小説をパール・バックにさえかかせるような女としての苦悩の要因をふくんだ習俗におさえられている社会であること、女に生れたことをくやむ言葉が女への讚歎として男の唇から洩されるような
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