信ある発展的・前進的活躍がないフラフラ雰囲気に飽きた一般人をその窮屈さも或る快感として把えるところとなっている。更に、「夜明け前」を読まぬ者まで昨今はそれを一応尊敬するのが常識となって来ているということ、現代の人々が或る大きい事業(文学的にでも)をひどく求めていながらそれを自身やる根気もなく、又すっかりやられて目の前につきつけられなければそういう努力の過程をも野暮なことのように感じる神経衰弱症。そういう心理的な点は、私がなかで文章というものの諸問題について考え、藤村の文章に非常に特徴を発見し、それを浅くではあるが考えて見たときからの興味の中心です。
 藤村が「あらゆる存在と必然とを肯定するに到った」その謎の説明として、貴方が藤村の社会的・階級的制約をあげ、小市民的インテリゲンツィアとしての観照的態度をあげてあるのは誤った解釈ではないと思いますが、彼が自分の長男をわざわざ木曾にかえして小さいながら自作農[#「小さいながら自作農」に傍点]として暮させているところ、人生的な意味で「百姓の道」に対する藤村のつよい肯定的執着、その地味な根づよい営み[#「営み」に傍点]ということに幸福と「中庸の道」即ち時代的変化の血、人間のよってもって立つところ(経済的にも)をおいている点、何か都会の小市民的インテリゲンツィアというには云い切れぬ粘り、あくどさ、くい下りがある。藤村の右のものが彼として今日あらしめ、「夜明け前」をあらしめており、それは都会的なものとは異った粘着力、土の強情さ、外見従順でインギンな執拗さであると思います。藤村においてはこの点がひどく複雑である。
 例えば「新片町より」の文章をよんで、誰があれを江戸っ子の浅草住居と言うでしょう。農民が珍らしい鮮魚のエラのうらまでを、味いつくしてたべ楽しむ、ああいう舌なめずりがある。外から来たもの、都会を発見したものの都会の味いかたです。人生におけるこの味いかた、この田舎っぺえさが藤村にあっては骨子をなしている。
 私は、何だか藤村においては都会の小市民的なもの(教養)の底から根づよい中農性ががんばり、顔を出しているように思います。どうかしら。それが彼の根本的の押しとなって生存せしめている忍耐ともなっていよう。
 藤村における「詠嘆的、慷慨的」なものを詩人的稟質と貴方は書いておられますが、どうかしら。こういうものは藤村が自身の教養と生
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