ころ、如何なる国際列車もまだ乗換場所がいくつも必要だから」「パリ人というものは自身や他人の金利のことについて口を出さぬ。もしこれに一言でも触れようものならパリ生活の秩序は根底から破壊されてしまうのだ。それは日本に於ける義理人情の如きもので、この生活を破壊して自由はないのであった。思想は生活の自由を尊重すればこそ思想である。しかしその思想が市民の根底をなす金利を減少せしめ、自由の生活を破壊に導く火を噴き上げている現在に於ては市民の思想とは如何なる種類のものであろうか。」「義理人情という世界に類例のない認識秩序の美しさ」その「生活の秩序を完成さすためには人間は意志的に無になる度胸を養成しなければならぬ」而して「嘘のようなうつつの世界から」「一足さわった芳江の皮膚の柔らかな感触だけが」「強くさし閃いているのを感じると、触覚ばかりを頼りに生きている生物の真実さが、何より有難いこの世の実物の手応えだと思われて、今さら子供の生れて来た秘密の奥も覗かれた気楽さに立ち戻り、又ごろりと手枕のまま横になった。」これが、高邁というポーズを流行せしめた一人の日本の作家の「一人前に成長した」と自認するところの姿であることを、読者は納得し得るであろうか。
アダム・イヴやプロメシウスの伝説以来人間が人間的智慧の輝しさを自覚したところから芸術は発生している。近代ヨーロッパ文学は、キリスト教に対して意志的に無になったところから生れたのではなかった。人間性を意志的に有にせんとする意欲から発祥している、「義理人情という秩序」に対して意志的に無になろうとするならば、その人は先ず第一に芸術家であることを廃業しなければならないであろう。近松は、あれほど沢山の浄瑠璃を書かざるを得なかった程、義理人情の枠を突破する現実の人間性の迸出《ほうしゅつ》を当時の社会にあって感覚したのである。
先頃来朝した戯曲家エルマー・ライスは、今日の世界の到るところに矛盾を認めた。せめて、それ迄の平静さ、へつらいなさ、淡白さを作家横光は、何故もち得なかったのだろう? 彼の特徴的な硬緊性は、どういう力の作用で「厨房日記」のように現れたのであろう。
今日、日本ではやっている日本的といわれるものの中に多分な翻訳的性質が含有されていることは、一つの顕著な時代的性格である。
小林秀雄氏は、先頃僕らは自分が日本人であるか西洋人であるかはっきり分らないと云う意味のことを書いた。ところが、それから幾何も経たないつい先頃、中野重治と戸坂潤の評論を反駁した文章(東朝)では、この二人の評論家が民族的自覚をもっていぬと云って攻撃している。小林氏はこの自然ならぬ飛躍に於て、日本の大衆は現実を批判しようとする意慾など必要としていないと云うのである。横光氏の知性の否定の傾向に結びついて、時代的な双生児である小林氏のこの旋回ぶりが哀れまざまざと浮立って映って来るのは何故であろう。
人類の歴史の発展において、迂遠なる大道である芸術の路上で、宙がえりやとんぼがえりをいくらしたとて、自他ともに益することは皆無である。少くとも数種の著作をもつ日本の作家や評論家が、不分明な日本語を操っていたうちはともかくそれぞれの立場から人間らしき知慧の明るさを求めていたのに、辛うじて平易な日本文を書き出したと同時に知性を喪失したとあっては、一九四〇年を目ざして、明朗な文化高揚のため砕心する諸賢においても、些《いささ》か憂慮を要する次第であろうと思われる。
[#地付き]〔一九三七年二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「文芸」
1937(昭和12)年2月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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