気よく、各自の気分で読んで、むこうから解説し内容づけてくれるという、特殊な境遇の便宜に馴らされていた。フランスでは、この一部の慣例が通用しなかった。言葉はそれが言葉として有する意味以外には通用しなかった。カッと目を見張って神経の弱い対手を習慣的な言葉の呪文で立ち竦《すく》ませることが出来なかったと同時に「厨房日記」の作者自身も、気持よく対手の麻痺の中に自身を憩わすことも不可能であった。義理人情の合言葉が、今日の現実の裡で何かの支えとなり得ているものならば、梶は何のために寝床の中で「あーあ、もとの木阿彌か」と長大息する必要があるであろう。暗夜、迷子になった息子を探しに出て歩きながら、「ふと自分も今自分の子供と同じような目にあっているのではないかと思われ」そのような有様に現代インテリゲンツィアの苦痛の姿を見る必然があるであろう。
 現代の知識人は一つの世界苦につつまれている。然し、それは、知性を否定せられることを承認し得ないところから発生しているものである。悪気流は、人間らしい知性の開発と光彩とを圧しつつもうとしている。それに対して抗《さから》いつつ、或る必要な力をもっていないという自覚に苦しんでいる、そこから現代のトスカが湧くのである。知性の喪失を、梶が謳歌していることに対して、もし、苦しんでいる知識人からの祝詞や花束がおくられると予想すれば、それは贈りての目当てにおいて大いにあやまったものと云わざるを得ない。従来馴致された作家横光の読者といえども、知性を抹殺する知性の遊戯を快く受ける迄に、虚脱させられていないのである。
 横光氏は、自身の文学的教養として従来フランス文学の伝統を汲んで来たと思われる。純粋小説云々のことも、あながち、スタンダールの言葉をアンドレ・ジイドが「贋金つくりの日記」の中で引用している、その言葉の模倣のみではなかったであろう。動いたり、飛びついたり、突ころがしたりすることの絶対にない活字に、印刷されているフランスやフランス文学[#「印刷されているフランスやフランス文学」に傍点]は、ジイドやマルローまでを理解し得ているかのようであっても、刻々の実際に生きて、呻いて、血を流して、しかもそこから新しいフランス文学を産もうとしているなまのフランスには堪え得なかった一人の作家をここに見るということは、無限の感慨である。「血眼になって騒いで来たヨーロッパの文化があれだったのか」と梶は云い捨てているが、梶のヨーロッパの現実についての理解力は、日本の現実についての理解と同然、腹立たしい迄に貧弱、且つ誤りに満ちている。
 自国の文化を十分に理解していないものがどうして他国の文化を理解することが出来よう。梶は、そのことの生き証人の如き観がある。梶は、国際列車にもまだ沢山の乗換場所がいる、というような言葉を機械的に暗誦し易いフレーズにまとめて云っているのであるが、この見解がもし作者自身にとって具体的な内容で把握されているのであったら、関西財界の大立物であるという友人に向って「日本の左翼はスターリン派かトロツキー派か、どっちが有力なんだ。君聞かないか」などと日本の実際から離れた奇問は発しなかったであろう。「日本も累進率の税法で、これから文化がどしどし上る一方だよ」という理論は、常人にとって全く理解し難い。それを、「梶は日本の変化の凄まじさを今更美事だとまたここでも感服する」というのは、いかがしたことであろうか。
「厨房日記」をよむと、この作者が外国でも日本でも、質のよくない情報者というか、消息通にかこまれていることがはっきり分る。それらの人々から断片的にあつめたインフォーメエションの上に立ち、而も作家としての立場からそれらの情報、説明を現実に照らし合わせて正当に判断するだけの力はない作者の無知が、言葉の綾では収拾つかぬ程度にまで作品の生地に露出している。それだけであるならば、従来もこの作者が現実に対して十分の理解をもっていなかったことの連続として、読者は新しく遺憾の意を表するに止るであろう。然し、「厨房日記」には、作者の現実に対する無知に加えられた何かがあることを感じさせられる。同じ程度の現実に対する無知がその実質であったとしても、これまでの作家横光は、少くともその作家的姿態に於ては、何か高邁なるものを求めようとしている努力の姿において自身を示して来た。内容はどういうものにしろ、高邁な精神という流行言葉が彼の周囲から生じていた。この人生に対して誠実げな足の運びで、登場していたのであった。その点で、一部の読者が彼の作品を判読したのであるし、マーケット・プライスが保たれたのであった。
「厨房日記」は嘗て高邁を称えた作家にふさわしい何物かを芸術としてのこしているのであろうか。「虚心坦懐とは日本でこそ最も高貴な精神とされているが」「今のと
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