も、ロンドンに行って後、非常に鮮明に、日本の文化的伝統とヨーロッパの文化的伝統との相異を、その社会的歴史の背景の前に認めた芸術家の一人であったが、それは、漱石にあっては、当時の日本の文学的水準にとって瞠目的な価値をもっていたイギリスの十八世紀文学の研究と文学評論とを生ましめた。同時に、日本の義理人情というものをも客観的に把握し解剖する力を獲得した。漱石自身のうちに時代的な意味で影響をのこしている義理人情をも、その観察の鏡にうつして眺めるようになった。小説の中で、彼は、旧来の義理人情というものが自然であるべき人間相互の関係を歪め、そこから生じた不調和や偽善に対して、人間的な、自覚をもつ我《われ》、及び自然的人間情緒が捲き起さざるを得ない軋轢《あつれき》と相剋とを描き得た。「それから」「門」「彼岸過迄」等、いずれもこの点で当時の日本人の発展的な内部生活を反映していたのであった。彼が、目白の学習院へ招《よ》ばれ、フロックコオトを着て述べたところの講演は、若い公達等に、人間性の自覚の必要を力説したものであった。
漱石は、飾らない言葉で一面では日露戦争後の日本人の盲目的なヨーロッパ崇拝を罵倒し、他の一面ではヨーロッパの文物にある俗物根性を批判した。より高い人間的水準の上に立つものとしての知識人の矜恃を求めている。漱石の自覚にあった、このより高い人間的水準というものは、今日の歴史の眼によって見れば独り合点のところもあり、最後の「明暗」の時代には、作家としての彼を深刻な内的分裂の危機に近づかしめつつあった。けれども、彼が愛する日本を暗くしている蒙昧に対して明知を、人間性の無視と没却とに対して、その自立と天然の開花を追求した方向においては、疑いもなく明治、大正年代の進歩人の意欲を正当に代表していたのである。
「厨房日記」における梶の見解、その見解に全然一致している作家横光の見解は、果して今日の日本の何人の生活感情を代弁し得ているであろうか。
義理人情が、日本の文学的伝統の中で芸術的表現を与えられたのは、義理といい人情という、この世の外的内的なしがらみを破り、或はまさに破らざるを得ないところまで迸った天然自然の人間性が、その柵にせかれて身もだえし、遂にそのしがらみを破ったと同時に我が身をも滅した憐れさを捕えたものであった。さもなければ、義理にせかれ、人情にからまれ、親子、夫婦、主
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