「未亡人の手記」選後評
宮本百合子
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(例)[#地付き]〔一九五〇年一―四月〕
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一
わたしのところに十三篇の原稿がまわされてきた。一つ一つと読んでゆくうちに、ぼんやり一つの疑問がおこった。こういうものについて「選をする」というのは、どういう意味をもつのだろうかと。どの一つをとっても書いたひとの現実とそれに闘っている心がそこにむき出されている。戦争の底の知れないようなむごさと、それによって破壊された生活をなんとか生きてゆけるものにしようとしているひたむきな姿がある。たとえその文章が、われわれ人民を戦争にうちこんでめちゃめちゃにした資本主義、軍国主義の権力と、人民の立場で考えられる「社会」というものを混同していて、軍国主義権力の欺瞞と破壊への憤りが「社会」一般にむけられていようとも。あるいは生活の幸福というものを、動かない形にはめて考えてきた老年の女性が、こわされながらもまだ生活の現実にのこっている積極な可能性をつかめないで、その一つの文章が嘆きと愚痴に終ってしまっているにしろ。やっぱりそこには実感が溢れ、そのような実感そのものが社会問題を提出している。
選をするといえば、何を標準にされるべきだろう。わたしとしては、日本の三百余万人の苦しい婦人たちの生活と感情の最大公約数を、めやすにするしかないと感じた。そして三篇をえらび出した。
どの文章も深く考えさせる。女性が先ず社会に自主的に生きてゆける一人の市民であるよりもさきに、嫁、妻、母といういわゆる「家族の人」としてばかり育てられてきて、その家庭があらあらしい権力でこわされたとき、女性の、したがってその子供たちのおちいる谷間の嶮しさ。そして寒さ。世界にはこんにち七億人の人々が平和のために団結している。世界民主婦人連盟は七千万の婦人の組織で、ファシズムと侵略的な戦争で犠牲となった世界各国の婦人たちが、熱烈に平和と社会生活の確立、児童の保護、民族の自立のために働いている。十二月には新しい中華人民共和国の北京で、アジアの平和のために婦人大会がもたれ、そこへ日本からの代表もゆこう。
村松章子さんの「黙殺された女達」、高橋春子さんの「コスモスの花にゆれる秋」、矢倉ふき代さんの「夫は星をほしがらなかっ
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