時でないと部屋の内をはき、ごみをひろわせ、見っともない物なんかをすててもう出て行く様にきまってしまった。前かたからこんな事はあろうと思って居たけれ共さすがにきのう今日の事と思って居なかったので此の三年の間住みなれた障子の間をもう出るのだから名残もおしく悲しくもあり泣いても甲斐のない涙とは知りながら涙が流れてとまらない。義王は出たけれ共、それでもあんまり名残惜しい、せめてもと又かえって住みなれた障子にこう書きつけた。
[#天から3字下げ]萌へ出づるも枯るゝも同じ野辺の草 いづれか秋に会はではつべき
義王は心を取りなおして車に乗って出たけれ共心はすすまないでも涙許りすすんだので、
[#天から3字下げ]今さらに行べき方も覚えぬに なにと涙のさきに立つらん
とよみながら義王は宿にかえり障子の内にたおれ伏して泣くより外にする事がない。母は此を不思議に思って「どうしたかどうしたか」ときいても返事も出来ない。つれて居る女にきいて始めてそう云う事があったと知った。こう云うわけだもので京洛の上中の人々は「アラ、義王は西八條殿から暇をいただいて出されたと云う事だ。サア、あって遊ぼう」と或は手紙をよこす人、或は使者をよこすものがあったけれ共義王、「今さら面目なくて人にあって遊びさわぐ事は出来ない」と云って手紙をとりあげて見もしなかったからまして使に会ったりなんかする事はなかった。そうこうして居る内にその年もくれ春の頃にもなったんで入道は義王の所へ使をよこして「義王、その後に別に何事もなかったか。仏があんまり退屈そうに見えるから来て舞でもまい、今様でもうたって仏をなぐさめてくれ」と云ってよこしたんで義王はあんまりの事に返事もしない。入道は又「サア、義王、なぜ返事をしないのだ。来ないのならば早くその事を云ってよこせ。入道も返事によっては考えがある」と云っておよこしになる。母の閉《トジ》は「あれ程おっしゃるのにナゼ御返事をしないんですか」「上ろうと思えば今に上りますと申しましょうが行かないのに何と御返事を申しましょう。呼ぶのに来なければ考えがあるとおっしゃるのは都を追い出されるのかそれでなければ命をおとりになるかこの二つにはすぎないでしょうに、たとえ都の内を出されても、どっかには落つく所がありましょう。又、たとえ命をとられても何でおしい事があるもんですか。一度、いやな物に思われて二度とふたたびお目にかかる事なんかあるもんですか」とまだ返事をしない、母は重ね「男女の縁と宿世の縁は今がはじまった事じゃあないじゃありませんか。千年までも末の世までもと契ってもやがて別れる間もあり、又只一寸と思いながら永くはてる人もあり、今世の中で一番あてにならないものは男女の間だと云って居るじゃあありませんか。まして御前達は遊者の身で一日二日呼ばれて居てさえどんなにか有難い事だのにまして此の三年もの間呼ばれて居たのだから、後の世までの思い出にこれにすぎた事はないじゃあないの。呼ぶのに来なければ考えがあるとおっしゃるのは都の内を出される事はあるかも知れないけれ共まさか命をおとりになるほどの事はありますまいが、たとえ都を出されてもお前達はまだ若いからどこに行ってもくらすにはこまらないだろうけれ共私は年をとった身でありながらなれないまずしいくらしをすると思えばそれだけでも悲しいのだもの。只、なんにもおねがいがないから私を都の内で暮す事の出来る様にして下さい。それが私の今生後世の孝行ですから」と涙を流しておっしゃったんで「そんならば行ってまいりましょう」と泣く泣く立ちかけたけれ共一人で行くのも何だか変だと妹の義女もつれて行く。同じ様な白拍子二人、すっかりで四人、一つ車にのって西八條の御館へ行く。入道は、先の内よばれた所よりズット下った所に坐をとって置かれた。「コレはマア何と云う事だろう。そして何のおとがめでこんなに、坐敷さえ下げられて、マア何と云うつらい事だろう。それにつけても今日自分は何しに来たんだろう」と思うと又悲しさがこみ上げて来る。そのけしきを人に見られまいと顔をおさえる袖の下からも涙があまってながれた。仏御前、「ここは先の中御呼入になった事のない所でもございませんもの。ここに御呼び遊ばせ。それでなければ私が出て御目にかかりましょう」と云ったけれ共入道が「何々」と云ってさからうのでどうする事も出来ない。其の後入道があって「どうだネ義王、その後何か変った事もあったかネ。仏があんまり退屈そうだから何か今様一つ歌ってくれ」とおっしゃるのでこうやって来たからには、入道殿の云いつけと云えばどうしてもきかなくてはならないものだと思って落る涙をおさえて今様を一つ歌った。
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月更け風おさまつて後、心の奥をたづぬれば仏も元は凡夫なり、我等も思へば仏なり、いづれも仏性具せる
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