母と云う者も昔はあったようだけれ共今はないし、又東方朔と有名な物も名許りきいて居て目の前に見た事はない。老少不定のさかいは石火の光と同じ様なはかないものである。たとえ人が定まった命をたもつと云っても七十や八十にはならず、その短い内に人の体の盛と云う時はたった二十余年ぎりである。その短い間に自分の心にしたがって自分の愛して居るものをしじゅう見ようとすれば親の命をそむいて不幸になる。又、親の命にしたがえば女の心はめちゃめちゃになってしまうだろう。短い世の中にいやなものを一寸でも見て何にしよう。浮世にそむいて仏のまことの道に入るのはこの上ないよい思いつきだ」と瀧口は十九でもとどりかりて嵯峨の奥の往生院に住んで念仏許りして暮して居た。横笛は此の事をきいて「たとえ様をかえたとおっしゃってもなんぼなんでも、私をすてはなさらないだろう。様をおかえになった事がほんとうにお可哀そうだ。たとえ様をおかえになるにしてもなぜ自分にそうと知らせて下さらなかったのだろう。たとえ彼の方がどんなに心づよくおっしゃってもどうしてどうかしてもう一度御たずねしたいてお恨したい」とある暮方に内裏を忍び出て嵯峨の方へあこがれて行らっしゃる。
頃はきさらぎの十日すぎの事なので梅津の国の風はよそのここまで床しい匂をはなしてなつかしく大井川の月影はかすみにこめられて朧にかすんで居る。この一方ならない哀な様子を誰故と思ったろう。往生院とはきいて居たけれ共たしかにどこの坊に居らっしゃるとも知らないのでここかしこの門にたたずんでたずねるのも哀である。ここに住みあらした僧坊に念誦の声がしたのを横笛は瀧口の声ときき知ったのでつれて来た女房を内に入れて云わせたのは「御様子の御変りになったのを拝見したいと横笛がここまで参りました」と云い入れたので瀧口は胸がおどって浅ましさに障子のすきまから見たらばねこたれがみのみだれて顔にかかった間から涙の雨露が所せまく流れて今夜一晩ねなかったと見えて面やせた景色、自分からすぐに入ってたずねたいのにそれもあんまりなとたずねかねた有様はほんとうに見る許でも可哀そうでどんな道心者でも心よわくなるだろう。瀧口やがて心を取りなおして人を出して「私はそんなものではございません。きっと間違えでもございましょう」ととうとう会わないでかえしてしまった。そののち瀧口入道は主の僧に向って云うには「とても世の中に遠ざかったしずかな所で念仏するのには一寸もじゃまではございませんがあきもあかれもしないで別れた女に住居を見つけられてしまいましたからたとえ今夜一度だけはこのようにかえしましたけれ共またしとうて来たりするときっと心が動くでございましょう。そうするとこまりますから御暇を申しあげます」と云って泣く泣くそこを出て高野の御山にのぼって法憧院梨の坊と云う所に行すまして居らっしゃった。横笛もそうやって居る時でないから都にかえり様をかえ奈良の法華寺に行すまして居ると云う事をきいたので入道は此の事をきいて大変よろこび高野の山から一首の歌を送られた。
[#天から3字下げ]そるまでは恨みし事どもあづさ弓 まことの道に入るぞうれしき
横笛の返事
[#天から3字下げ]そるとても何か恨まんあづさ弓 ひきとどむべき心ならねば
横笛は思いのつのったためか程なくはかなくなってしまった。それをきいた入道はますます行いすまして居らっしゃったので父も不幸をゆるし、したしい人は高山の御山の聖の御坊と云ってもてなして居るし、もとのみを知って居る人は瀧口入道と云って居た。其後三位の中将が瀧口をたずねて行って会って見ると都に居た時には布衣に立烏帽子衣紋をつくろい髪をなで、あんなに美くしかった男と誰が思うだろう。出家してからは今日始めて御らんになるのだけれ共まだ三十にもならないのに老僧のような姿にやせ衰えてこい墨染の衣に同じ色の袈裟、香の煙のしみ込んだよく行いすました道心者の様子をうらやましく思われた。晋の七賢が竹林寺、漢の四皓がこもったと云う商山ごもりの住居もこの様子にはすぎなかったろうと見られた。
義王
昔は源平の両家が朝廷に仕えて居て、みいつにもしたがわないで朝権を軽んずる者があればおたがいにいましめ合って居たので代のみだれもなかったけれ共保元の乱に為義が斬られ、平治の乱の時に義朝が誅せられたあとは末の源氏があると云っても名許りで或は流れて居る。或は誅せられてしまったので一向平家の向をはる物がないので平家ばかり一人はん昌して何か思って居てもその勢におそれて頭を出す者もないのできっと末になってから何事かありそうに見えた。かように入道相国は一人で天下四海をも掌に握ってしまってからは人の笑や世のそしりなんかにはとんじゃくなく思いはかられない事許りなすった。その頃京洛中に又とないと云われた白拍子の
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