。「私は三位殿の御使の正時で」と云うと戸をあけられる。あげたその御半紙を開いて御らんになると一首の歌が書いてある。
[#天から3字下げ]涙川うき名をながす身なりとも 今一度のあふせともがな
すぐ返事を書いて正時にお渡になる。正時八條の御堂に行って三位殿にあげると開いて見るとこれも又一首の歌を書いてある。
[#天から3字下げ]君ゆへに我もうき名を流す共 そこのみくづと共に消えなん
三位殿は此の手紙を御らんになって大変に心をなぐさめられる。そのあと、三位殿は守護の武士に向って「もう一度芳恩にあずかりたいのだけれ共どうだろうか」とおっしゃると武士共は「何でございますか」と云ったので「別の事ではないけれ共きのうの文の主にあって死んだあとの事なども云っておきたいと思うのだが」とおっしゃると守護の武士は「一寸もかまいませんから」と云ったので大喜びで正時に此の事をおっしゃると正時はかいがいしく牛車をさっぱりと用意して院の御所に行って此の故を申し上げると女房もあんまり思いがけない事だったので大変喜んですぐに出ようとなさるとまわりの女房達が「マア、かるはずみな事、そんな事はおよしになった方がようござんしょう。まわりには武士共が大勢居るのに見っともないではありませんか」と云いあうけれ共此の女房は「今日会わなかったらいつ会えるか知れないのですもの」と急いで車にのって八條堀川の御堂に行って案内をたのむとおっしゃるので三位殿は、「私のまわりには武士共が沢山居てあんまりきまりがわるいから、車からお出になっちゃあいけませんよ」と門のわきに車を立ててずゥーと夜がふけて人のねしずまってから三位殿が自分から車のある所に行って会って今までの事行末の事なんかを夜っぴてはなして居られた。だんだん朝になって来たので人目にかかってはと云うので車のながえをめぐらして又もとの道へかえって行かれる。どこをやどと急いで行らっしゃるのだろう又、ただいつと云って□□[#「□□」に「(二字不明)」の注記]られたのだろうか、忍びきれぬ悲の様子は車の外までもれただろう。そのあとからすぐ正時を使にして歌を送られた。
[#天から3字下げ]会ふ事も露の命ももろ共に こよひ許りや限りならまし
女房は、自分から墨をすり筆をとって返事を書かれたけれ共自分の翡翠《ひすい》のかんざしを結いてあるきわから插しきって返事にそえて送られた。その返事には、
[#天から3字下げ]逢事の限ときけばつゆの身の 君より先に消ぬべきかな
三位殿はそのかんざしを御らんになって日頃の女房の志のまことの色があらわれてその心の内の苦しさは声に出て叫ぶほど苦しく思われた。やがてその女房は院の御所をまぎれでてまだ二十三と云うのに花のたもとに引かえて墨ぞめの袖にやつれはてて東山の双林寺の近所に住んで居られた。此の女房と云うのは大原の民部入道親範の女で左衛門の督《カミ》の殿と云った御人である。
横笛
その頃いろいろ物哀な話はあったけれ共中にも小松の三位の中将維盛卿は体は八島にあっても心は都の方へ許り通って居た。そしてどうかして古郷にとどめて置いた小さい児供達も見もし顔を見せたいものだと思って居られたけれ共、丁度いいたより[#「たより」に「ついで」の注記]もないので与三兵衛重景や童の石童丸は舟の様子を知って居るからと舎人武里と三人許りつれて寿永三年三月十五日の夜のあけがた八島の館をしのびでて阿波の国の結城のうらから船にのって出てしまわれた。鳴戸の奥を渡って和歌の浦、吹上の浦や衣通姫の神様になっておあらわれになったのをまつったと云う玉津島の明神、日国前の御前の渚をこぎすぎて紀伊の湊にお着になった。ここから浦々をつたい島々を通って陸を路[#「路」に「(ママ)」の注記]って都へ行きたいとは思われたけれ共叔父の三位の中将重衡卿が一人生捕にされて京の田舎につれて行かれて生はじをさらして居らっしゃるのでさえ恥かしいのに又維盛までがつかまえられて父の名誉を汚す事もすまないからと都へ行きたいとは幾度も心が進んだけれ共考えに考えてそこから高野の御山にのぼってかねて知りあいの御僧さんを御たずねになる、この僧さんと云うのは三條の斎藤左衛門大夫茂頼の子の斎藤瀧口時頼と云ってもとは小松殿につかえて居られたけれ共十三の時本所に来た建礼門院の雑仕の横笛と云う女があった。その女を瀧口が大変に愛して通って居たと云う事が評判になったので父の茂頼が此の事を聞いて或る時瀧口をよんで云うには「私は御前一人ほか子をもって居ないから誰かよい人の縁の者にでもして出仕するついでにでもしようと思ったのにあんなくだらない横笛とか云う女になれあったとか、ほんとにお前は親不孝者の骨せう[#「せう」に「(ママ)」の注記]じゃ」なんかといろいろにいましめたので瀧口は思うに「西王
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