義王、義女と云う姉妹があった。これは閉《トジ》と云う白拍子の娘である。入道は中にも義王を最愛して西八條の屋敷にとめて置かれた。このようなわけなので妹の義女も人々は限りなく重くもてなして居た。そして母の閉《トジ》も入道は大切にしてよい家を作ってやって毎月朔日ごとに米百石、金百貫を車で送って居られたので家の中もとみさかえて楽しい事はかぎりがない。それだもんで京洛中の白拍子は義王の大切にされるのをうらやむ者があれば又そねむ者も沢山あった。うらやむ者は「マア、何と云う義王御前と云う方は幸な御目出たい方だろう。同じ遊びものとなるならばあの方の様にあってほしいものだ。きっとこれは義と云う字を名につけたので此の様にめでたいのだろうから、私もつけて見ましょう」と或は義一とつけるものがある。あるいは義二と、義徳、義福、義寿、義宝なんかとつけた。又、そねむ者は「何で名によったり、文字によったりする事がありますか。マア、――、そうならばみんな義の字をつけてみな栄えるはず、果報はただ何でも生れつきの運ですもの、何と云ったって」と云ってつけないものもたくさんあった。そもそも、我朝に白拍子の始まったのは鳥羽院の御時に島の千歳、和歌の前と云う二人が舞い始たのが始めだとか。始は水干に立烏帽子白いさやまきをさして舞ったもんで、男舞と名づけられたので中比から刀、烏帽子をよして白い水干許りでまったので白拍子と名づけられたのである。そしてこうやって義王がここにすえられてから三年目と云う春の頃に又仏と云って優しい美しいあそびものが又出て来た。この女は加賀の国の者と云う事である。この頃京洛中の上下の人は昔から多くの白拍子はあったけれ共、この様な人はまだためしがないと云ってこぞって此をもてなして居た。或る時仏御前が云うには「私は天下にかくれない白拍子だと云っても、今さかえて居らっしゃる平家の太政入道殿へ呼ばれて行かないのが不平でしようがない。遊者の推参はあたりまいの事でかまわないのだから」と或る時仏は車に乗って西八條の館へ参った。侍人が入道の所へ来て「仏と云って美しい遊びものがまいりました」と云うと「何しに来た、元は遊者は人に呼ばれて来るものだのに、呼びもしない所に来るとは、その上義王が居る間は神と云っても仏と云ってもサアサア早くかえしてしまえ」とすげない仰をうけて出て行くと義王が云うには、「遊び者の推参はあた
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