に日数もすぎて「もしやもしや」と思って居たたのみの綱もつきたのでよりどころない心細さを感じられた。二月の十三日一の谷から八島へむかって海を渡られる暁つき近くに北の方、乳人の女房に向っておっしゃるには「ほんとうに思えばはかない哀なものだ、三位の君のあした、打ち出ようとする夜に軍場に私をよび招えておっしゃるには『弓矢取るものの軍場に出るのは常の事だけれ共今度はきっと死ぬだろうと思うと世にくらべるもののないほど心細い。さて考えれば此の通盛のはかない情に都の内をさそわれ出て歩みなれぬ旅の空に出てからもう二年にもなるのに一度もいやなかおをなさらなかったのはほんとうに此の通盛がいつの世までも忘れない嬉しい事だと云って、そして此のように体のつねでないのもよろこんで通盛が三十になるまでは子と云うものがなかったのにさては浮世のわすれかたみにと云うのであろう。そしてこのようにいつまででもきりのない波の上、船の中の住居だから身々となる時のきまりわるさ、心苦しさをどうしたらよいだろう』なんかと云って居られた言葉も今ははかないかねごととなってしまった。まだこの世に居らっしゃった六日の前のあかつきをもう此の世のかぎりと知れたならばきっと後の世を契ったものをあいそめたその夜の契さえ今は中々うらめしくて彼の物語にある、光源氏の大将の朧月夜の内侍のかみ、弘徽殿のほそどのも私の身の上にひきくらべて一しお哀深う思う。まどろめば夢に見ん、さむれば面影に立つと云うたのもほんとうの事に思われる。それだが又、身々となってから幼児を育てて置いて亡き人のかたみと思って見たならば悲しみはまさるともなぐさめられる事はきっとあるまい。なまじ生きて居たらば思わぬうきめもあろう。志草のかげで見るも心うい事であろう。此のようなついでに火の中水の底へでも入ってしまいたいと思って居る、書いて置いた手紙を都の方へお送りなって下さい。ついでに後世の事を云って置きましょう。装束をどんな聖にでも賜って我の御世をともらって下さいね。何よりもこのなごりがいつのよまでも忘れないほど悲しい」と云っていろいろ行末、こし方の事をかきくどいておっしゃると乳母の女房は「マアどうしたのでございましょう。日頃は人が来て物を申しあげるのにさえはっきり御返事もなさらないような御方が今夜許り此の様にいろいろおかきくどいておっしゃるのはほんとうに火の中水の底にでもお
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