「土」と当時の写実文学
宮本百合子

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(例)[#地付き]〔一九三八年一月〕
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 ありふれた従来の日本文学史をみると、明治三十年代に写生文学というものをはじめて提唱した文学者として正岡子規、高浜虚子や『ホトトギス』派のことは出て来るが、長塚節のことはとりたてて触れられていない。
 明治十二年に茨城県の国生という村の相当の家に生れた長塚節は水戸中学を卒業しないうちに病弱で退学し『新小説』などに和歌を投稿しはじめた。
 正岡子規が有名な「歌よみに与ふる書」という歌壇革新の歌論を日本新聞に発表したのは明治三十一年であった。当時十九歳ばかりであった長塚節はこの論文にいよいよ動かされた。そして、三十年には子規の門に入り、主として和歌、俳句、写生文を学び、子規が没し『アララギ』が出るようになってからは節は主として『アララギ』に和歌を発表しつづけていた様子である。斎藤茂吉氏が「節の本領は和歌にあるが、子規の唱えた写生文から入って遂に小説を作るに至った。世に、写生文派の小説、ホトトギス派の小説というのは即ちそれである」と云っているのはこの消息を語るものである。
 長塚節には、長篇「土」の前にいくつかの短篇がある。子規が没した翌年ごろ、二十五歳になっていた節に写生文「月見の夕」というような作品があり追々この種の作品がふえ、はじめての短篇小説は「炭焼のむすめ」(二十八歳)であったらしい。「土」は恐らく慎重な節によって永い月日を費して書かれていたものであったろうが発表されたのは明治四十三年の六月で、漱石が朝日新聞に推薦した機会であった。翌年、もう節は喉頭結核の宣言をうけ、その後は転々として五年間の療養生活の間に主として短歌に熱中し『アララギ』に「鍼の如く」数百首を発表した。この時代節の歌境は非常に冴えて、きびしく鋭く読者の心に迫る短歌を生んだ。しかし、散文としては終に「土」が彼の芸術的生涯の最後の作品となったのであった。
「土」が書かれた時分の日本の文学的潮流は自然主義であった。日露戦争後、戦勝とともに日本の文化に滲透して来た自然主義の主張というものも、今日顧みればこの文芸思想の発生地であるフランスにおける理解、文学的成果と日本のそれとの間には微妙な変化が
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