ニティーの主張において具体性をそなえて来た。実践的な力をそなえて来て、組織と行動の意味を把握して来た。こんにち、第三次大戦の挑発に対して、全世界の規模で実行されつつある民族自立の運動と平和擁護の運動の現実が、この事実を明瞭に語っている。
 世界各国で、それぞれの国の文学は、質的に変化し、発展しようとしている。社会主義リアリズムは、やがて世界の文芸思潮となるだろう。それぞれの国のそれぞれの現実によってヴァリエーションが加えられつつもそうなってゆかなければ、従来のフランス文学の方法では必しも新しいフランス人を描けないことはわかって来ているのだし、日本の現代文学は日本の社会の現実にある動き、人間的諸関係を描ききれなくなっているのだから。

 人間みずからが、資本主義社会の人間性歪曲とその断片化から自身の歴史を救い出そうとしているこんにちの努力と、それを再現しようとする文学上の実験は、一部の文芸批評家が云うように、決して、社会主義的アイディアリズムではない。過去のブルジョア文学の文学についての観念は、おおかたが、資本主義の社会機構に対する抵抗を放棄したところから多岐に発展――というよりも末節化して来たものであった。社会と個人との関係の追求の方向においても、ソヴェト文学以外のヨーロッパ文学の大勢は、第一次大戦後は益々個的細分化の方向しか辿れなくて、潜在意識の中に自己存在の核をさぐったり、主体的決定の放棄、自我の実践が空白の状態に実存を見ようとしたりすることしか不可能になった。人間性の分裂を追究することの意味は、その分裂追求を通じて、分裂からの人間的脱出を見出してこそ意義がある。文学創造という、人間精神の高度な作業そのものが統一と綜合とを本質としてもっているのだから。
 日本の現代文学の多くが、きょうの世界の歴史の力づよいどよめきからずれきって、月々のジャーナリズムの上で信じられないような人間生活の断片や社会生活の腫物、腐敗物をせせっているのは、戦慄をおこさせる光景である。そのような文学[#「文学」に傍点]を書いている作家の一人一人にきいてみれば、その人々は誰しも戦争時代の日本文学が、文学でなかったことを云うであろうと思う。だが、きょうの現実が、果して、文学を再建した状態であるだろうか。文学の精神――現実批判と真実の追求の精神が、果して、それらの作家のどこにあるだろうか。隷属し
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