おちていると同じに失喪されている批評の能力に新しい生命を与えることはできない。
世界の現実はこんなに巨大で複雑で、はげしく動いている。資本主義社会の内にうまれて、すでにその社会の人間性分裂の操作に多かれ少かれ害されているわたしたちが、自身の様々な不十分さとたたかいながら、なお人類への希望を失わず、人間再建のために自身の民族としての独立と戦争という世界人民に対する殺戮の行為に反対して文学の仕事をしているということは、われわれ文学がそのような本質に立っているというそのこと自身、民主的な人民の文学の連帯的性格を語っていると思う。別の言葉でもっとあからさまに云えば、わたしは、「伸子」につづく「二つの庭」や「道標」およびこれから書かれる部分を、自分のもの[#「自分のもの」に傍点]とは思っていない。きょうに生きるみんなのものであらせなければならないと思っている。みんなのものなのだけれども、文学作品がつくられてゆく現実の過程として、特にああいう種類の作品は、一人の作家の社会人間的・文学的努力を通じて形成されるしかない。それをやりとげることは、わたしたちの文学陣営に対する、わたしの義務であると思っている。わたしの最大の能力をもって、そのひとつらなりの文学作品の世界をみんなのものとして実在させてみる責任があると思っている。しかし同時に、わたしには、どのようなブルジョア文学者も知らないような一つの信頼感がある。その信頼感は、自分の文学上の力量に関するものなどではなくて、われわれがどのように生きつつあるかという日々の現実、そのいまはまだ語られざる真実についての信頼感である。これを逆にいうと、いくらかおかしいことにもなって、たとえわたしは、この長篇をへた[#「へた」に傍点]に書くかもしれないけれども、人間・文学者としていかに生きるかという点で、作品を生きこしている現実が自身の良心に確認されているなら、作品はそのような歴史の中でおのずからうけるべき生命があるという信頼である。わたしたちの立場にある文学者の人生と文学とは、生きつ、生きられつの関係にしかあり得ない。人間の事実としてみても、常に、いかに作品がつくられるかというよりも先に、いかに生きつつあるかが問題である。自分が生きつつある歴史の地点のどの位手近いところまで作品をひっぱりあげることができるか。それが力量というものであろう。そして、
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