「大人の文学」論の現実性
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)脾睨《へいげい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)真面目な[#「真面目な」に傍点]文学者と見られている
−−
近頃、一部の作家たちの間に、日本の作者はもっと「大人の文学」をつくるようにならなければならない、という提唱がなされている。この頃一般人の興味関心は文学から離れつつある。その理由を、今日の作家は文学青年の趣向に追随して、その作品の中で人間はいかに生きてゆくべきかという生きかたを示さず、小説の書きかたに工夫をこらしているからであると見る評論家(小林秀雄氏)作家(林房雄氏)たちによって、「大人の文学」論がいわれているのである。
従来、ごく文壇的なひととして生存して来ている小林、林氏などによってこのことがいわれはじめているのは面白い。一般に、近頃の小説はつまらないという声の高いのがとりも直さず文学に対する関心がうすれたとばかりいえるかどうか。つまらない、という上は、読者が何か文学から求めているものがほかにあり、しかもそれが満たされていないところから湧く声である。
さながら文学青年によって今日の作家は害されているようにいわれているが、文学青年と一括されて語られている若い人々としてみれば、そもそも俺たちを産んだのは誰だと、ききかえしたいものもあるであろうとも思われる。なぜなら、きのうまで、文学青年と呼ばれる人々はいわば彼等作家たちのまわりに集まり動いて作家たちの身辺を飾るそれぞれの花環を構成していたのであるから。その生きた花環の大小が文壇における作家の重みを暗に語るものでなかったとはいえないのである。
「大人の文学」をつくるために、林氏は自分たちのように真面目な一群の作家が、すべからく率先して指導的地位にある官吏、軍人、実業家が今日彼等の中心問題としていることを文壇の中心問題として根気よく提唱しなければならないといっているのである。
複雑な生活経験によって豊富にされた大人が、なお十分の魅力を感じつつ読めるような作品が一つでも多く書かれなければならないということについては誰しも異存のあろうはずはないのである。しかし、私としては、この提唱に関して大変興味を刺戟されている一つの点がある。それは、「大人の文学」の提唱がされている一方に
次へ
全5ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング