代の一つの精神が、彼の選んだ政治の路線をどのような角度でとおって、日本土着の人民の運命に密着し、帰属してゆくか、という点である。野間宏にとっては、人々によって語られているあたりまえの日本語さえも、新しい生活の発見に属すであろう。「青年の環」「時計の目」「硝子」へのプロセスがそのことを十分暗示している。
フランスの社交《サロン》小説の大体は、こんにちのフランスには存在しえない、限界に立つものだった。アナトール・フランスの「赤い百合」でさえも、この作家の最良の収穫たらしめなかった。モーパッサンが、「脂肪の塊」と「女の一生」「水の上」の他の何で文学史の上に立っているだろう。自身のロマネスクなるものの源泉を、フランスの社交小説において、こんにち語ることのできる三島由紀夫も、おそらくは戦時下の早熟な少年期を、「抵抗《レジスタンス》」の必然のなかったころのフランス文学に、それが、どれほど歴史の頁からずれつつあるかを知らずに棲んだのだろう。
ソヴェト同盟の文学が、一九三三年ごろからはロシア語とともに「危険」「要監視」となって、椎名麟三が、ドストイェフスキーにばかり親しまなければならなかった、ということも、あながち、自身の気質によりかかったとばかりは云えまい。椎名麟三も、日本へ帰りはじめている。
ひとくちに、戦後の文学、戦後の作家とよばれている現代文学の素質に、このように日本独特な精神の国内亡命が、因子となって作用している事実は、見のがされてはならない点である。
第二次大戦、ファシズムの惨禍を、日本の戦時的日常の現実を、通じて生死しながら、精神では大戦前のレジスタンスを知らないフランス文学に国内亡命をしていた人々の矛盾は、おそらくその人々に自覚されているよりも激しく、こんにち日本の文学に国内亡命をしていた人々の矛盾は、おそらくその人々に自覚されているよりも激しく、こんにち日本の文学の空虚さに作用していると考えられる。
このことは、「俘虜記」から「武蔵野夫人」への大岡昇平についても考えられることではないだろうか。スタンダリアンであるこの作家の「私の処方箋」(群像十一月号)は、きょうのロマネスクをとなえる日本の作家が、ラディゲだのラファイエット夫人だの、その他の、下じきをもっていて、その上に処方した作品をつくり出していること、或は歴史性ぬきの下じきを使用することをあやしまない
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