立つ傾向は、例えばゴーリキイを記念するために多くの人々が執筆したごく短い感想の中にも看取された。
私は、そのいずれもが、ゴーリキイ自身の発展の意義や彼と新しい歴史的世代の文学の生長との関係を、正当にとらえていないことを感じた。又、或るひとの感想の中には、ゴーリキイの盛大な葬送の光景を写真で見てプロレタリア作家としての幸福を思い、小林多喜二の不幸な生涯の終りを思いくらべた、何という違いであろう、と感慨がのべられており、その比較などもつよく私の心を打った。
私には、こういう幸福、不幸の対比がそれを書いた人自身が自分の生き方、闘いの外部的な表れかたの形の判断の上にも適用するのであろうと思い、不安を感じた。
何故なら、新しい歴史的世代がそれぞれの事情の中で、どうしても経て克服してゆかなければならない困苦、艱難の形は、他のより進んだ事情にあるところと比べて見れば、そこではもう過去になっている犠牲、献身、努力の形態をもって現れて来るのである。
ゴーリキイの生涯の結びと小林の生涯の終りとは、だから、人類の歴史的な発達の展望の上に立って眺めると、決して本質的に幸福、不幸と分けられる種類のもので
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