り合ったというのは、真実である。けれども妻と一歳の娘――インガに、妻のグラフィーラと自分とのどっちを選ぶつもりなのかと云われると、ドミトリーはこう答えるしかなかった。「どうしていいか分らない! 森へ迷いこんだようだ。」
 インガは、その点をただ恋人とし、女としての立場からだけ云っているのではなかった。彼女は、同志として、ドミトリーの決断を知りたいのである。赤坊のために、自身の発育を低める党員があるだろうか? 娘にとって闘士であり、革命家である父であるためには、結局日常生活の実践そのもので、彼がひるまぬ闘士であり、革命家でなければならない筈ではないか?
 ドミトリーは、困った揚句、一策を思いついた。
「やっと考えた! やれやれ! インガ、二人で一週間かそこら、郊外へ行こう! どうだ? 或はモスクワへ。」
「それから?」
「フー。どうでもいいじゃないか? どうにかなるだろう。何とか落着がつくだろう。」
「何とか? どうにか? いいえ! そういう決心は私の役に立ちません。」
 インガとしては、自分達の関係がただことのゆきがかり、或は成行で決定されることを認めることは出来ない。社会主義社会の建設は、果して成りゆきによってその方針を決定され、進展されているような受動的なものであるであろうか? それは全然反対だ。
 ドミトリーは遂に決心した。
「よし!」
 インガは息をころしたが、ドミトリーは呻いて一つところを低徊した。
「奴等をすてることは俺にゃ出来ない!」

          三

 ドミトリーは悪い時に家に帰って来た。
 沢山の洗濯物が部屋の天井からぶら下り、赤坊の揺り籠が隅においてある。そういうドミトリーの室では、遊びに来て喋り込んでいた女房を追いかけて、例のボルティーコフがあばれ込んで来ているところであった。
「畜生! 上向けば女! 見下しゃ女! あっち向きゃ女! ここでまで女だ! えい、畜生! サモワールを俺さまが立てるてえのか? 俺あ貴様の何だ? 犬か? 亭主か?」
 そして、たった四十だのにもう干物みたいになって終っているナースチャを、ボルティーコフは擲る。引ずりまわす。
 一日中寝巻姿でゾロリとしている技師ニェムツェウィッチの女房が、騒動をききつけてドアから鼻をつっこみ、それを鎮めるどころか、折から書類入鞄を抱えてとび込んで来たドミトリーを見るや否や、キーキー声で喰ってかかった。
「タワーリシチ・グレチャニコフ! 住宅管理代表として、こんな醜態は以後注意して下さらなくちゃ困りますわね。宅にはお客様があるんですよ。宅はへとへとになって帰って来たのに、ここじゃドッタン、バッタン! 休めやしない! こんなことだと分ってりゃ引越してなんぞ来なかったんです。」
 流行もなにもないぼってりした恰好で、後れ毛を頬にたらした無学なおとなしいグラフィーラは、自分達の家庭へ他人があばれ込むのも制御出来ない。而も、彼女は今辛い心持をやっと押えているのであった。さっきアイロンをかけるためにドミトリーの上着をふるったら、一枚紙きれが落ちた。何心なくひろって見たら、どうだろう、それはインガからドミトリーへあてた呼び出しであった。
 ああ、この頃のドミトリーの変りようはどうだろう。元は、何でも話し一緒に笑いした彼が、まるであかの他人みたいな目つきで自分を見る。黙っている。その原因が、ここにあった。グラフィーラは泣きながら、ナースチャに訴えていたところであった。
「私はミーチャなしじゃ生きていかれないよ。……誰にやるもんか。ねえ、何のためにこの子までを不仕合わせにするんだろうねえ。あの女が私よりも綺麗なら綺麗でいい、いい女ならいい女でいいよ。だからって、どうしてワーリカが不仕合わせにならなけりゃならないんだ。私の怨みは忘れても、そればっかりは勘弁出来ない!」
 ドミトリーに見つからないようにかくしておいた聖母像までもち出して、グラフィーラは拝もうとした。が結局こんな絵が何のたしになる!
「ひょっとしたら、これでミーチャは私に愛想をつかしたんじゃないだろうか? おがんでいるのを見たんじゃないだろうか。ああナースチャ! 私、どうしていいかわからないよ!」
 そこへ、酔ったボルティーコフがよろけこんで騒動をおっぱじめたのであった。
 グラフィーラは、涙を前かけでふいた。ボルティーコフ夫婦とお喋り女を追っぱらってやっと椅子へ坐り込んだドミトリーに、彼女はおずおず訊いた。
「ミーテンカ……夕御飯の仕度しようか?」
「――いらない。」
「お茶?……じゃあ。」
「何も欲しくない。……はっきり云ったじゃないか!……どこもかしこもガラクタだらけだ。きたない……掃くひまもなかったのか? フ!」
 ドミトリーはこの頃見えはじめた自分の家庭の内の文化の低さに我慢出来ないように溜息した。彼は、ハンケチを出して額をなでまわした。ハンケチには香水がついている。グラフィーラは後毛《おくれげ》をたらしたまま、歪んだ笑顔で、
「香水をつけ出したんだね。」
と云った。
「とてもいい香水だ……何を拭いてるのさ?」
 食いつくようにドミトリーを見つめていたグラフィーラの眼が、忽ち涙と怒りでギラギラ光り出した。彼女は、いきなりぶつかった。
「ミチカ! 馬鹿! お前すっかり自分の身をほろぼすんだよ……私たちみんなを滅ぼすんだ!」
 ドミトリーは、びっくりして女房を見上げ見下した。
「どうしたんだ? 狂犬か? 今日は……」
 グラフィーラはたまらなくなって、ドミトリーの足許へ体を投げ出した。
「ミチューシャ! お前さんは私の大切な蝋燭だよ! ね私の悲しいときの悦びだよ、お前さんは!」
「やめろよ、おい! 休ましてくれ。一日中気違いみたいに働いて、またここで……」
 ドミトリーは、いきなりとってつけもなく云った。
「お前、体を洗わなかったんか? 変に匂うぜ……」
 一言が、思い掛けない結果になった。グラフィーラは、刺されたように床から跳び上った。
「いやかい? いやんなって来たのかい私が。知ってるよ、いやなのは! そう云いな。何故だましてるんだ? どうして私を嬲《なぶり》もんにしてるんだよ!」
 彼女は、震える手でインガからの手紙をドミトリーにつきつけた。
「恥しらず! 卑劣漢! こんなこたなかったって云うつもりか。え?」
 黙りこくってその手紙を眺めたのち、ドミトリーはのろのろポケットへしまい込んだ。
 やがて、同じようにのろくさ云った。
「――じゃ、片をつけよう、こうなったからにゃ。」
「片をつける?」
 インガと話していた時には、とても言えないと思っていた言葉が遂に出た。ドミトリーは勇気を失うまいとしながら、グラフィーラの、家事で荒れて大きい手をとった。
「グラーシャ! わかってくれ。俺あ育ったんだ。元の俺じゃなくなったんだ。」
 月給を貰うと、まあ自分には時計の鎖でも買ったり、グラフィーラに新しいショールでも買ってやる。月に一遍夫婦揃ってお客に行く。祭の日にはせいぜいキノか芝居へでも出かける。昔のドミトリーの生活のそれが最大限度であった。家庭がドミトリーの慰安所であった。
 ところが、革命が起った。ドミトリーの生涯は新しく、闘争と餓えとの間から萌え出した。プロレタリアート全戦列の前進とともに。
 グラフィーラの生活は、ドミトリーのその急速な社会生活の拡大について、一緒にひろがってくることは出来なかった。彼女の地平線は、昔ながらに労働者住宅の壁までで止っている。台所と洗濯桶と亭主とワーリカが命である。
「――俺の全生活が今開いたんだ。そいつを俺あすっかり捕えたい。何にも逃さないように。――……ああ。わかるか? お前に、……同じこった、いろんな言葉で云って見たところで。」
 だが、夫婦として暮した十一年間! 生れたばかりのワーリカ。――グラフィーラには承知出来ない。
「いろんな言葉? あの時、お前さんが負傷してチブスんなってつれて来られた時、じゃ私たちはどんな言葉で話したろう? 夜、お前さんのわきに坐って看病してやったとき。二人が補助金だけで暮して、お前さんはあけても暮れても本にばっかりかじりついている。私はミシンで働いて、お前さんに暖いもの喰べさせていた時分、私たちは、じゃ、どんな言葉で喋ったっていうんだろう? ミーチカ!」
 グラフィーラは知っている。ソヴェトには沢山亭主にすてられた女がいるのを。亭主が、やっぱり「育ってしまって」女房をすてるのを。だが、この自分が、同じその目に会うといつ思っていただろう。ドミトリーは苦しげに唸った。
「どうしてそんなことを云い出すんだ? 今のこと云ってるんだよ、俺は。」
「私はこれまでの永い永い年月のことを云ってんですよ、お前さんにやった。――お前さんは自分のことだけ覚えてる。――私はどんなに生きて来た? お前さんが兵隊に行っているうち、私はのんべんだらりとしていたかい?」
 ドミトリーには、涙づかりになって「昔」で自分を押し包もうとしている無智な女房が、重荷に感じられて来るばかりである。
「――籠をかしてくれ!」
 遂にドミトリーが云った。
「どの?」
「その。」
「ありや坊やのものが入ってる、やれないよ。」
 ドミトリーは、室の天井からぶら下っている洗濯物の中から自分のシャツや靴下をひっぱりおろして、新聞紙へ包んだ。書類鞄へガサガサと机の上のものをさらいこんだ。
 戸が開いた。そしてしまった。
 暫くして、ナースチャがそっとグラフィーラの部屋を覗きに来た。彼女は、仰天してころがるように室からかけ出した。
 コレクチーブ秘書のソモフが、人のいい胡麻塩髯をふるわしてとび込んで来た。
 グラフィーラは醋酸を飲んだのである。

          四

 三ヵ月ほど経った或る日のことである。
 裁縫工場の午休みの時間。今日はこの休み時間に婦人労働者たちが、一つの同志裁判をやろうとしている。ボルティーコフが仕様がない。飲んだくれる。依然として女房のナースチャを木っぱよりもひどくとり扱う。労働者住宅や職場で騒ぎが持ち上る。その真中をのぞくと、いつもその中心にボルティーコフの強情な骨だらけの肩がゆらゆら揺れていないことはないのだ――。第一、婦人労働者がこんなに働いているところで、彼みたいな男を放任して置くことは、もう女たちに辛棒出来なくなって来た。
 工場クラブの広間には床几が並んでいる。赤い布のかかったテーブルがある。
 ぞくぞく陽気な婦人労働者が入って来た。てんでに床几へかける。メーラがジャケットのポケットへ両手を突こんで、やって来て、赤い布のかかったテーブルの前へ坐った。
 最後に一かたまり、賑やかに何か喋りながら入って来た連中を見ると、おや、そこで中心をなしているのは、ほかならぬグラフィーラではないか。
 これが、あの無智なグラフィーラ、自殺しそこなったグラフィーラであろうか。
 今の彼女は十も若がえったようだ。みんなと同じ仕事着を着て頭をきっちり赤い布でしばって、穿いている黒靴こそ、醋酸をのんで倒れたとき、穿いていたままだが、顔つきと云い歩きっぷりと云い、これは別人だ。
 しかも、何だか他の若い労働婦人たちより一層確りしたようなところがある。
「さ、グラーシャ、代表員《デレガートカ》は真前へ坐るもんだよ!」
 はにかんで奥へひっこむグラフィーラの手をひっぱって、仲間が、床几の最前列へ彼女を坐らせようとしている。グラーシャは、今は、快活な一人の婦人労働者であるばかりではない、代表員である。
 だが、あの引こんで赤坊と台所だけに命をささげていたグラフィーラ。ドミトリーがすてた、おくれた女房[#「おくれた女房」に傍点]の彼女は、どうしてこんな変りかたをしたのだろう。
 そのことについてグラフィーラは、胡麻塩頭のソモフを忘れることは出来ない。あの晩、熱にうかされ、半分うわごと[#「うわごと」に傍点]のようにドミトリーの名を呼んでいる彼女のわきに坐って、やさしく鼓舞してくれたのは、組織の古い働きてのソモフだった。
「――ミーチャ……ミーチャ。どうして
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