グラフィーラは醋酸を飲んだのである。

          四

 三ヵ月ほど経った或る日のことである。
 裁縫工場の午休みの時間。今日はこの休み時間に婦人労働者たちが、一つの同志裁判をやろうとしている。ボルティーコフが仕様がない。飲んだくれる。依然として女房のナースチャを木っぱよりもひどくとり扱う。労働者住宅や職場で騒ぎが持ち上る。その真中をのぞくと、いつもその中心にボルティーコフの強情な骨だらけの肩がゆらゆら揺れていないことはないのだ――。第一、婦人労働者がこんなに働いているところで、彼みたいな男を放任して置くことは、もう女たちに辛棒出来なくなって来た。
 工場クラブの広間には床几が並んでいる。赤い布のかかったテーブルがある。
 ぞくぞく陽気な婦人労働者が入って来た。てんでに床几へかける。メーラがジャケットのポケットへ両手を突こんで、やって来て、赤い布のかかったテーブルの前へ坐った。
 最後に一かたまり、賑やかに何か喋りながら入って来た連中を見ると、おや、そこで中心をなしているのは、ほかならぬグラフィーラではないか。
 これが、あの無智なグラフィーラ、自殺しそこなったグラフィーラであろうか。
 今の彼女は十も若がえったようだ。みんなと同じ仕事着を着て頭をきっちり赤い布でしばって、穿いている黒靴こそ、醋酸をのんで倒れたとき、穿いていたままだが、顔つきと云い歩きっぷりと云い、これは別人だ。
 しかも、何だか他の若い労働婦人たちより一層確りしたようなところがある。
「さ、グラーシャ、代表員《デレガートカ》は真前へ坐るもんだよ!」
 はにかんで奥へひっこむグラフィーラの手をひっぱって、仲間が、床几の最前列へ彼女を坐らせようとしている。グラーシャは、今は、快活な一人の婦人労働者であるばかりではない、代表員である。
 だが、あの引こんで赤坊と台所だけに命をささげていたグラフィーラ。ドミトリーがすてた、おくれた女房[#「おくれた女房」に傍点]の彼女は、どうしてこんな変りかたをしたのだろう。
 そのことについてグラフィーラは、胡麻塩頭のソモフを忘れることは出来ない。あの晩、熱にうかされ、半分うわごと[#「うわごと」に傍点]のようにドミトリーの名を呼んでいる彼女のわきに坐って、やさしく鼓舞してくれたのは、組織の古い働きてのソモフだった。
「――ミーチャ……ミーチャ。どうして
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