ります。しかし私が彼の女を保護するために取った手段を考えた時に、――いえ私は実は、彼の女を愛していたのですが、ホームズさん実は私は恋と云うものを、この時こそ初めて知ったのでしたが、――私は彼の女が、あの南アフリカ第一の残忍な悪漢で、キムバーレーから、ヨハネスブルグまでの間で、人々から震怖《しんぷ》されているウードレーの手中にあるのかと考えた時は、私は全く前後不覚に逆上してしまったのでした。いえホームズさん、御信用下さらないかもしれませんが、私はこの娘さんを雇入れてからは、私はこの家には悪漢共の住んでいるのは知っていますから、いつも自転車で彼の女の後に遠くついて、彼の女の無事なのを見届けるようにしたほどでした。私は彼の女からは、相当の距離をとり、また髭もつけていたので、彼の女には私がわからなかったのですが、強いてこんなことをさしたのも、あの善良で潔白な彼の女が、もし私が田舎道で彼の女をつけるなどと云うことがわかったら、もう私のところには居なくなるだろうと思ってのことでした。」
「じゃどうして君は、彼の女にその危険を教えてくれなかったのだね?」
「つまりそれも、やはり彼の女に、私のところを去られてしまうと思ったからです。このことだけは私は、とても堪え切れませんでした。例えば彼の女は、私を愛してはくれなくっても、せめて彼の女の美しい姿を、私の家のあたりに見、彼の女の声をきくことが、私にとっては、絶大のことでした。」[#「」」は底本では欠落]
「なるほど」
 私は云った。
「君はそれを愛と呼んでいるが、しかしカラザース君、それは利己主義と云うものだよ」
「いやそれは結局、一致するものかもしれませんがしかし、とにかく私は、彼の女を去らせることは出来ませんでした。その上に周囲はああした連中ですからね。彼の女には誰か、側《そば》に居てよく見てやるとよいのだがなと思いましたが、その時私は海底電信を受け取りましたので、彼等は策動を始めようとしていることを知ったのでした」
「どんな電信だね?」
 カラザースはポケットから、海底電信を取り出した。
「これです」
 彼は云った。それは短い簡明なものであった。
[#ここから2字下げ]
『あの老人は死んだ』
[#ここで字下げ終わり]
「ふうむ!」
 ホームズは云った。
「もう大体の見当はついたが、――またこの電信でどうしようと云うことも、まあ想像は出来るが、しかしこうして待っている間に、君の知ってるだけのことを話してもらってもいいね」
 その年取った法衣姿の無頼漢は、無茶苦茶な悪口罵詈を浴びせかけて来た。
「覚悟しろよ!」
 彼は叫んだ。
「もしお前が俺たちを裏切るなら、ボッブ[#「ボッブ」は底本では「ポップ」]・カラザース、お前がジャック・ウードレーに逢わしたと、同じ報をしてやるから、――お前があの娘に、心のたけの泣きごと云うのは、お前のことだからかまわないが、しかしこの私服刑事に俺たち仲間のことにまで口をすべらしたら、それこそお前が臍の緒を切ってから今までにやったことの中で、一番ひどい悪業だぞ」
「いや尊師よ、そう昂奮しては困りますな」
 煙草に火をつけながらホームズは云った。
「この事件と君との関係は、もう十分明瞭になっている。私のききたいのは、ただ自分の好奇心の満足のため、少しばかり細々しいことを耳に入れたいだけなのだ。いやしかし、それは君の口からは話しにくいと云うことなら、僕の方から話してやろう。こんなことを秘密にしようたって、それはいかに、難しいかを、よく考えてみるがいい。まず第一にだ、君達は三人で、この獲物のために、南アフリカから来たのだろう、ね? ウィリアムソン君、ね、カラザース君、ウードレー君、――」
「いや、その第一番目のは嘘だ。」
 老年の男は云った。
「私は二ヶ月前までは、この二人を全く知らなかったし、また私は生れてからまだ、南アフリカなんて云うところには、行ったこともありませんよ。おせっかい屋のホームズさん、篤《とく》とお考えなさって、冗談も休み休み仰有って下さい」
「彼の云うことは本当です」
 カラザースは云った。
「よろしい、よろしい。君たち二人が海を越えて来たんだね。それなる御尊師は、内地製だったんだ。それで君等は南アフリカで、ラルフ・スミスを知った。そして彼はもう長くは生きないと云う見極めもついていた。そして彼の姪がその財産を相続することになると云うことも気がついた。どうだね? それでいいかね?」
 カラザースは点頭《うな》ずき、ウィリアムソンも肯定した。
「彼の女はもちろん最も近い血縁の者であるが、君たちは、その老人は遺言状を作るまいと考えたろう」
「彼は読むも書くも出来なかったのです」
 カラザースは云った。
「そこで君たちは二人で帰国して、その女を狩り出したのだ。しかもその方針をなおつきつめてみると、君たちの中の一人は、彼の女と結婚し、それから他の方は、そうして得た獲物の、分け前を取ると云うことであったろう。そして更に、何かの理由からウードレーがその夫に選ばれたんだね。その理由は何だったんだね?」
「私たちは航海中に、カルタで賭けて、彼が勝ったのです」
「ふうむ、そんなことか、――そこで君はあの娘さんを雇い入れて、ウードレーはそれに、持ちかけると云うことだったんだね。しかしあの娘さんはウードレーを、飲んだくれの悪漢ときめてしまって、てんで相手にはならない、――その中《うち》に君があの娘さんに恋をしてしまって、君たちのお膳立ては、すっかりと覆ってしまうこととなった。君はもうあの娘さんを、あの悪漢に渡すことが出来なくなってしまった」
「えい、私は金輪際、渡すことが出来ませんでした」
「そこで君たちの中には喧嘩がおっぱじまってしまった。そして喧嘩分れとなって、彼は今度は君にはかかわりなく、勝手に計画を立てた」
「ウィリアムソン、この方は何もかもちゃんと知っているには驚いてしまったね。」
 カラザースは、苦笑しながら叫んだ。
「そうです、確に私たちは喧嘩をしました。そして彼は私を打ちのめしました。とにかくここまでは私は、彼と全く同等です。それからは私は、彼とは逢いませんでしたが、しかしこの時に彼はここに居る、相棒を拾ったのでしょう。それから私は、この連中が、彼の女が停車場に行くに、通らなければならないところに、すなわちここですが、家を持ったと云うことは、わかっていましたが、それからどうも、不吉な予感がしてならないので、私は彼の女から、目を放さないようにしました。それからまた、あいつめ共は、どう云うことを企らんでいるかと云うことも、気がかりでしたので、時々あの連中にも目をつけました。二日前にウードレーは、あのラルフ・スミスが死んだという電信を持って、私のところに来て、例の契約を履行するか否かを訊ねました。私は出来ないと云いますと今度は、もし私自身が彼の女と結婚することになったら、分け前を出すかと云いますので、私は、出したいことは山々だが、しかし彼の女は結婚してはくれないだろうと云いました。そうしたら彼は、『とにかく彼の女を結婚させようではないか。そうしたら一週間か二週間もたったら、また少しは違った目で、物を見るようにもなろう』と云うのでした。しかし私は、暴力沙汰はいやだと云いましたら、彼の本性の悪漢振りをまる出しにして、私を口ぎたなく罵りながら、どうしても彼の女を手に入れるんだと、タンカを切って出ていったのでした。それから彼の女は今週の末は、私のところを去りますので、私は馬車を用意しました。彼の女はその馬車に乗って、停車場に向ったのでしたが、やはり私は不安だったので、自転車で後から追っかけることにしたのですが、しかし彼の女は早く発ってしまって、私が追いつかない中《うち》に、この不幸が襲いかかってしまったのでした。それで私が最初に知ったことは、全くお二方が彼の女の馬車で、進んで来られたことだったのでした」
 ホームズは起ち上って、煙草の吸い殻を、灰皿の中に捨てた。
「僕は実にのろまだったよ。ワトソン君」
 彼は云った。
「君が帰って来た時に、君の考えでは自転車乗りが、灌木の中で、多少ネクタイを直したろう、と云うことを云ったが、あのことはもう、僕に全部を語っていることだったのだ。しかしとにかく我々は、種々《いろいろ》の意味で全く比類の無い事件にぶっつかったと云うことは、大いに祝福するに足ることであったと思う。ああ田舎の警官諸君が三人、駈けつけて来る。あの馬丁君も、一緒に足並を揃えて来るのは、嬉しいじゃないかね。そこで彼でもない、いやあの面白い花婿君でもない――まあいずれこの諸君は、今朝の一冒険で、一生を棒に振ったと云うわけかな。それからワトソン君、君は医者の資格で、一つあのスミス嬢を見舞ってみてはどうかね。そしてもしもう御気分がすっかりいいのなら、お母さんのところに、送ってあげようと云ってみたまえ。またもしまだ気分が癒《なお》らないと云うようなら、ミドランドの若い電気技師に、電報を打とうと謎をかけてやれば、もう即坐に全快だろうよ。それから君、カラザース君だが、君は最初の悪い計画に対して参与した罪を償うためには、最善のことをしたと、僕は考える。さあ、名刺をあげておこう。もし僕の立証が、法廷で君に役だつようであったら、それは君の御自由にやってくれてよろしいよ」

 たぶん読者諸君も、よく解ってくれるだろうと思うが、この全く休み無い立て続けの大活動の中で、事件の詳報をもたらすと云うことは、それはたしかに世の好奇心に大いに期待することには相違ないが、しかし私にとってはしばしば困難なことであった。それぞれの事件は、他の事件の前奏曲であり、そしてその最高の峠を越してしまうと、その登場役者たちは、忙わしい我々の生活から、永久に消え去ってしまった。
 しかしこの事件のことを記した稿本の末尾には、ちょっとした追記があって、ヴァイオレット・スミス嬢は、たしかに大きな財産を相続し、そして現在は、あの有名なウェスミンスター電業者の集りである、モートン・エンド・ケネデー協会の、高級会員である、シリル・モートンの妻になっていると記されてある。それからウィリアムソンとウードレーは、誘拐罪と殴打罪で、前者は七年の懲役、後者は同じく十年に処された。カラザースのことについては、私は別に記録してはいないが、しかし、ウードレーがもっぱら兇悪漢と云う定評で通っていたから、彼のやったことは法廷では、そう重大視はされなかったろうと確信する。たぶん数ヶ月の懲役と云うところが、適当な求刑であったろう。



底本:「世界探偵小説全集 第四卷 シヤーロツク・ホームズの歸還」平凡社
   1929(昭和4)年10月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 貴女・貴方→あなた 彼の→あの 或→あるい 如何→いか 何れ→いずれ 何時→いつ 愈よ→いよいよ 所謂→いわゆる 於ける→おける 却って→かえって 難い→がたい 曾て→かつて かも知れ→かもしれ 屹度→きっと 位→くらい 極く→ごく 此方→こっち 毎→ごと 左様なら→さようなら 併し→しかし 而も→しかも 直→じき 屡々→しばしば 暫く→しばらく 直・直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 其処→そこ 其・其の→その 大分→だいぶ 沢山→たくさん 多分→たぶん 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て居→てい で居→でい て居・て置→てお て見→てみ て貰→てもら 何処→どこ 処→ところ 何方→どっち 何誰→どなた 兎に角→とにかく 猶→なお 仲々→なかなか 成る程→なるほど は居→はい 許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 不図→ふと 程→ほど 先ず→まず 未だ→まだ 見たい→みたい 見る見る→みるみる 寧ろ→むしろ 若し→もし 勿論→もちろん 尤も→もっとも 専ら→もっぱら 矢張り→やはり 稍々→やや 漸く→ようやく 僅→わずか」
※底本は、
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