芸術』の頁数の都合で、いつも締切りすぎに短時間で書き、二枚五枚と工場へはこび、しかも編輯《へんしゅう》の都合で伸縮自在のうきめにあったもので、そのために一層ありのままで文飾などありません。私の生れたうまや新道、または、小伝馬町《こでんまちょう》、大伝馬《おおでんま》町、馬喰《ばくろ》町、鞍掛橋《くらかけばし》、旅籠《はたご》町などは、旧江戸|宿《しゅく》の伝馬《てんま》駅送に関係がある名です。文中にもある馬込《まごめ》氏は、江戸宿の里長馬込|勘解由《かげゆ》の家柄で、徳川氏が江戸に来たとき、駄馬人夫を率いて迎えた名望家で、下平河の宝田村――現在の丸の内――から土地替に伝馬町へ移され名主となった由緒があるのです。大伝馬町の大丸の下男が、旅籠町となったのをかなしんで、町札をはがしたことも書きましたが、旅籠町とはずっと昔にも一度つけてあった町名で、旅籠とは、馬の食を盛る籠《かご》、馬飼《うまかい》の籠から、旅人の食物を入れる器《うつわ》となり、やがて旅人の食事まかないとなり、客舎となり、駅つぎの伝馬旅舎として縁のふかい名であり、うまや新道の名も、厩《うまや》も、小伝馬町|大牢《たいろう》の御用のようにばかり書きましたが、それも幼時の感じを申述《もうしの》べただけです。
伝馬町大牢は明治八年まで在存し、牢屋の原の各寺院は、明治十五年ごろから出来たことを、文中には書洩《かきもら》しましたからここに記入いたしおきます。
我見《がけん》『日本橋』は、まだもっと書きつづけるつもりでおりますが、この集には、近親のものが重に書かれたため、したがって挿入した写真など、親《しん》に厚ききらいがありますが、これは当時の風俗を知るため、手許《てもと》にあって、年月に間違いのないものゆえに、私事を捨てて入れました。挿絵《さしえ》は天保《てんぽう》十四年に生れた故父|渓石深造《けいせきしんぞう》が六歳のころから明治四年までの見聞を「実見画録」として百五十図書残しおいてくれましたなかから、すこしばかり選び入れました。装幀《そうてい》は烏丸光康卿《からすまみつやすきょう》『後撰集《ごせんしゅう》』表紙裏のうつし、見返しは朱が赤すぎましたが、古画中|直垂紋《ひたたれもん》であります。
この書は書肆《しょし》の熱意にて、極めて速《すみやか》に出来、ふりがなを一度失いしためにあるいは校正の麁洩《そせつ
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