彼は、ロープに蹴つまずいた。
「畜生! 出鱈目にロープなんぞ抛り出しやがって」
彼は叱言を独りで云いながら、ロープの上へ乗っかった。
ロープ、捲かれたロープは、………
どうもロープらしくなかった。
「何だ!」
水夫見習は、も一度踏みつけて見た。
彼は飛び下りた。
躯を直角に曲げて、耳をおっ立てて、彼は「グニャグニャしたロープ」を、闇の中に求めた。
見習は、腐ったロープのような、仲間を見た。
「よせやい! おどかしやがって。どうしたってんだい」
ロープは腐っていた。
「オイ、起きろよ。踏み殺されちゃうぜ。いくら暑いからって、そんな処へもぐり込む奴があるもんかい。オイ」
と云いながら、彼は、ロープを揺ぶった。
が、彼は豆粕のように動かなかった。
見習は、病人の額に手を当てた。
死人は、もう冷たくなりかけていた。
見習は、いきなり駆け出した。
――俺が踏み殺したんじゃあるまいか? 一度俺は踏みつけて見たぞ! 両足でドンと。――
彼は、恐しい夢でも見てるような、無気味な気持に囚われながら、追っかけられながら、デッキのボースンの処へ駆けつけた。
「駄目だ。ボースン。奴あ死んでるぜ」
彼は監獄から出たての放免囚見たいに、青くなって云った。
「何だって! 死んだ? どいつが死んだ?」
「冗談じゃないぜ。ボースン。安田が死んでるんだぜ」
「死んだ程、俺も酔っ払って見てえや、放っとけ! それとも心配なら、頭から水でも打っかけとけ!」
「ボースン! ボースン! そうかも知れねえが、一寸行って見てやって呉れよ。確に死んでる! そしてもう臭くなってるんだぜ」
「馬鹿野郎! 酔っ払ってへど吐きゃ、臭いに極ってら。二時間や三時間で、死んで臭くなりゃ、酒あ一日で出来らあ。ふざけるない。あほだら経奴!」
ボースンは、からかわれていると思って、遂々憤り出してしまった。
「酔っ払ったって死ぬことがあるじゃないか! ボースン! 安田だって仲間だぜ! 不人情なことを云うと承知しねえぞ、ボースン、ボースンと立てときゃ、いやに親方振りやがって、そんなボーイ長たあ、ボーイ長が異うぞ! 此野郎、行って見ろったら行って見ろ!」
見習は、六尺位の仁王様のように怒った。
「ほんとかい」
「ほんとだとも」
水夫たちは、ボースンと共に、カンカン・ハマーを放り出したまま、おもてへ駆け込んだ。
「何だ! あいつ等あ」
ブリッジを歩きまわっていた、一運(一等運転手)は、コーターマスターに云った。
「揃って帰っちまやがったじゃないか」
コーターマスターは、コムパスを力委せに蹴飛ばしながら、
「サア」と、気のない返事をした。
――滅茶苦茶に手前等は儲けやがって、俺たちを搾りやがるから、いずれストライキだよ。吠え面かくな――と彼は心の中で思った。
「おかしいじゃないか、おい」
一運は、チャートルーム(海図室)にいる、相番のコーターマスターを呼んだ。
「オーイ」
相番のコーターマスターが、タラップから顔を覗かすと、直ぐに一運は怒鳴った。
「時間中に、おもてへ入ることは能きないって、おもてへ行って、ボースンにそう云って来い」
「ハイ」
彼が下りかけると、浴せかけるように、一運はつけ加えた。
「そして、奴等が何をしてるか見て来い。よく見てから云うんだぞ」
「オッ」
彼は、もうサロンデッキを下りながら答えた。
一運は、ブリッジをあちこち歩き始めた。
ブリッジは、水火夫室と異って、空気は飴のように粘ってはいなかった。
船の速度丈けの風があった。そこでは空気がさらさらしていた。
殊に、そこは視野が広くて、稀には船なども見ることが出来たし、島なども見えた。
フックラと莟《つぼみ》のように、海に浮いた島々が、南洋ではどんなに奇麗なことだろう。それは、ひどい搾取下にある島民たちで生活されているが、見たところは、パラダイスであった。セーラーたちは、いつもその島々を、恋人のように懐しんだ。だが、その島も、船が寄港しない島に限るのであった。船がつくと、どんな島でも、資本主義にその生命を枯らされていることが暴露されるからであった。
燈台が一つより外無い島、そして燈台守以外には、一人の人間も居ない島、そんな島が幾つも浮んでいた。そんな島は、媾曳《あいびき》の夜のように、水火夫たちを詩人にした。
今、第三金時丸は、その島々を眺めながらよろぼうていた。
コーターマスターは、「おもて」へ入った。彼は、騒がしい「おもて」を想像していた。
おもて(水夫室)の中は、然し、静かであった。彼は暫く闇に眼を馴らした後、そこに展げられた絵を見た。
チェンロッカー(錨室)の蓋の上には、安田が仰向きに臥ていた。
三時間か四時間の間に、彼は茹でられた菜のように、萎びて、嵩が減って、グニャグニャになっていた。
おもては、船特有の臭気の外に、も一つ「安田」の臭いが混ざって、息詰らせていた。
水夫達は、死体の周囲に黙って立っていた。そして時々、耳から耳へ、何か囁かれた。
コーターマスターは、ボースンの耳へ口をつけた。
「死んだのかい」
「死んだらしい」
「どうしたんだい」
「やけに呷ったらしいんだ」
「フーム」
「………………」
「で、水葬はいつかい」
「一運に一度訊いて見よう」
「酒が、わるかったんだね」
「ウム、どうもはっきり分らねえ。悪い病気じゃないといいが……」
明日、水葬する、と云うことに決った。
安田は、水夫たちの手に依って、彼のベッドへ横たえられた。
大豆粕のように青ざめていた。
彼の死に顔は、安らかに見えた。そして、こう云ってるように見えた。
「もう、どんな者にも搾られはしない」
これ以上搾取されることが厭になった、と云う訳でもあるまいが、安田の死体が、未だ海の中へ辷り込まない、その夜、一人のセイラーと、一人の火夫とが、「又酔っ払った」
第三金時丸は、沈没する時のように、恐怖に包まれた。
「コレラだ」と云うことが分ったのだ。
船長、一運の二人が、おもてへ来て、「酔っ払って、管を巻いてる」患者を見た。
二人の士官が、ともへ帰ると、ボースンとナンバンとが呼ばれた。
彼等は行った。
船長は、横柄に収まりかえっていられる筈の、船長室にはいなくて、サロンデッキにいた。
ボースンとナンバンとが、サロンデッキに現れるや否や、彼は遠方から呶鳴った。
「フォア、ピーク(おもての空気室――船の云わば浮嚢――)のガットを開けろ。そして、死人と、病人とを中へ入れろ。コレラだ! それから、病人の食事は、ガットから抛り込むことにするんだ。それから、おもての者は、今日からともに来ることはならない。それから、少しでも吐いたり、下したりする者があったら、皆フォアピークへ入れるんだ。それから。エー、それから、あ、それでよろしい」
船長は、黴菌を殺すために、――彼はそう考えた――高価な、マニラで買い込んだ許りの葉巻を、尻から脂の出るほどふかしながら、命令した。
ボースンと、ナンバンは引き取った。
フォアピークは、水火夫室の下の倉庫の、も一つ下にあった。
その中は、梁や、柱や、キールやでゴミゴミしていた。そこは、印度の靴の爪尖のように、先が尖って、撥ね上っていた。空気はガットで締められていたため、数年前と些も違わないで溜っていた。そして空家の中の手洗鉢のように腐っていた。
そこは、海に沈んでいる部分なので、ジメジメしていた。殊に、第三金時丸の場合では、海水が浸みて来た。
星の世界に住むよりも、そこは住むのに適していないように見えた。
船虫が、気味悪く鳴くのもそこであった。
そこへは、縄梯子をガットにかけて下りるより外に方法はなかった。十五六呎の長さの縄梯子でなければ、底へは届かなかった。
これから病人や死体が、そこへ入るにしても、空気は、楕円形の三尺に二尺位の、ガットの穴から忍び込むより仕方がなかった。
そんな小さな穴からは、丈夫な生きた人間が「一人」で、縄梯子を伝って降りるより外に、方法は無かった。
病人を板か何かに載せて卸すと云うことは、不可能なことであった。病人を負って下りることもできなかった。然し、首に綱をつけて吊り下すことはできた。ただ、そうすると、病人は、もっと早く死ぬことになるのだった。
どうして卸したらいいだろう。
謎のような話であった。
けれども、コレラは容赦をしなかった。
水火夫室から、倉庫へ下りる事は、負って下りると云う方法で行われた。
倉庫から、ピークへは、「勝手に下りて貰う」より外に方法が無かった。
十五呎を、第一番に、死体が「勝手に」飛び下りた。
次に、火夫が、憐を乞うような眼で、そこら中を見廻しながら、そして、最後の反抗を試みながら、「勝手」に飛び込んだ。
「南無阿弥陀仏」と、丈夫な誰かが云ったようだった。
「たすけ……」と、落ちてゆく病人が云ったようだった。そんな気がした。
水夫は未だ確りしていた。
「俺はいやだ!」と彼は叫んだ。
彼は、吐瀉しながら、転げまわりながら、顔中を汚物で隈取りながら叫んだ。
「俺は癒るんだ!」
「生きてる間丈け、娑婆に置いて呉れ」
彼は手を合せて頼んだ。
――俺が、いつ、お前等に蹴込まれるような、悪いことをしたんだ――と彼の眼は訴えていた。
下級海員たちは、何か、背中の方に居るように感じた。又、彼等は一様に、何かに性急に追いまくられてるように感じた。
彼等は、純粋な憐みと、純粋な憤りとの、混合酒に酔っ払った。
――俺たちも――
此考えを、彼等は頑固な靴や、下駄で、力一杯踏みつけた。が、踏みつけても、踏みつけても、溜飲のように、それはこみ上げて来るのだった。
病める水夫は、のたうちまわった。人間を塩で食うような彼等も、誇張して無気味がる処女のように、後しざりした。
彼等は、倉庫から、水火夫室へ上った。
「ピークは、病人の入る処じゃねえや」
「ピークにゃ、船長だけが住めるんだ」
彼等は、足下から湧いて来る、泥のような呻き声に苛まれた。そして、日一日と病人は殖えた。
多くもない労働者が、機関銃の前の決死隊のように、死へ追いやられた。
十七人の労働者と、二人の士官と、二人の司厨《コック》が、ピークに、「勝手に」飛び込んだ。
高級海員が六人と、水夫が二人と、火夫が一人残った。
第三金時丸は、痛風にかかってしまった。
労働者のいない船が、バルコンを散歩するブルジョアのように、油ぎった海の上を逍遥し始めた。
機関長が石炭を運び、それを燃やした。
船長が、自ら舵器を振り、自ら運転した。
にも拘らず、泰然として第三金時丸は動かなかった。彼女は「勝手」に、ブラついた。
日本では大騒ぎになった。――尤も、船会社と、船会社から頼まれた海軍だけだったが――
やがて、彼女が、駆逐艦に発見された時、船の中には、「これじゃ船が動く道理がない」と、船会社の社長が言った半馬鹿、半狂人の船長と、木乃伊《みいら》のような労働者と、多くの腐った屍とがあった。
[#地から1字上げ]――一九二六、二、七――
底本:「日本プロレタリア文学全集・8 葉山嘉樹集」新日本出版社
1984(昭和59)年8月25日初版
1989(平成元)年3月25日第5刷
初出:「解放」
1926(大正15)年5月号
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2010年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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