御飯を食べなけれやいけないね」と子供に向つて云ふことも出来る。「早く快くならうねえ」と云ふことも出来る。さう云つた方が、全つ切り黙つて出て行くよりも、慰さめにはなるだらうし、私の立場としても、余り不自然ではない。だが、私は医者でもないし、看護手でもないし、救護班でもなかつたし、慰問係でもなかつた。ただの土方兼帳付けであつて、外の何者でもなかつた。云はば、省線の踏み切りにある自動ベル見たいな機能しか持たないものだつた。だから私は、私の持つてゐる極めて稀薄な人間的要素をも持て余してゐた。
もし、人が、誰だつて構はないが、同情、博愛、共存共栄、社会主義と云ふ風な美徳を帯びて、その上、その美徳を単なる装飾の範囲から、実行の域にまで移したいと云ふ熱意に燃えてやつて来るならば、工事場には来ない方がいい。どこにも行かない方がいい、とは、私は思はないが、少なくとも工事場に来ても、法がつかないと云ふ事を発見するのが落ちであらう。
万福は殆んど、その中に人間――尤も子供ではあるが――が寝てゐるなどと思はれないやうに、一隅に寝てゐた。
私は、困つたことには、自動ベルであるべき筈なのに、感情を動かしてゐた。
地下足袋を脱いで、私は飯場の蒲呉座の上に膝で上り、万福の枕頭ににじり寄つて見た。
万福は眼を開けてゐて、さし寄せた私の顔を見てゐた。その眼は、迷ひ込んで来た小鳥の眼のやうに、元通り無邪気であつたが、何かにとまどひしてゐる風な表情があつた。
が、その下ぶくれの可愛いい頬は、まるで病監にゐる囚人のやうに、痩せこけてしまつてゐた。六つの子供とは思はれないやうに、頬骨も顎の骨も、露骨に突き出てゐた。
まだ六つの子供である、と云ふことを私は知り抜いてゐたが、眼の前にゐるこの子供の顔は、どうしても「子供の顔」とは思へなかつた。萎びてトゲトゲしてゐて、垢染みて、老人の、それも死に近い病人の顔に似てゐた。
――人間の顔と云ふものは、発育する途中では、旺盛な生命力を、目盛り見たいに表情の中に持つて居り、衰弱する場合には、死期までの目盛りを、その表情に持つてゐるものではあるまいか――
と、フト、万福の顔を見てゐるうちに、私は考へた。
私は万福の頭を、その為に殺したりなんかしては大変だと案じながら、静かに、静かに撫でた。
その軟かい頭髪は、埃にまみれてゐて、私の労働に荒れた掌の、筋目の中に食ひ込むやうに感じられた。
私はその時、悲しいとか、哀れだとか、気の毒だとか云ふ感じよりも、「困つた」と云ふ気持の方が多かつた。途方に暮れると云つた方が確かだつたであらう。
万福は今、私がどのやうにして見たところで、私には手がつけられない状態にあつた。万福の父も同様だつた。それ等を養つてゐる安東にも、私は手を貸すことが出来なかつたし、私自身さへも、その時、私の家族――子供たちから「帰らうよ、帰らうよ」と、せがまれてゐた。
私にはどこに「帰る」家があり、故郷があらう! 子供たちは自分の生れた処、又は、ここに来る以前の土地が故郷であつた。だが、その土地を喰み出された私たちではなかつたのか。
万福も、きつと、労働不能に陥つたその父に、「帰らうよ、帰らうよ」と云つてせがんだのではあるまいか。その母に、泣いて訴へたことがあつたのではあるまいか。
もし、万福がその父母に泣いて「帰らうよ」とせがまなかつたとしたら、どうだらう。そんな小さな子供にまで、「帰るところが無い」と、思ひ込ませるやうな日常の境涯に、この家族たちは置かれてゐたのだ。
私は放心したやうな状態で、豆とヒビだらけの掌で、無意識に、万福の頭を撫でてゐた。そろつと、そろつと。
そして私の出来ることは、ただ、それつ切りであつた。
私は、どの位の間、さう云ふ放心状態にあつたか、とにかく、万福の父は、私がフト気がつくと、私に話しかけてゐるのであつた。もう随分、長く、いろいろと話してゐるのだと見えて、話のつながりが分らなかつた。よしんば話のつながりが分つたところで、私にはどうすることも出来なかつた。
大体、私がフラフラの万福の容態を見舞ひに来たのは、万福の負傷や、その経過についての心づかひからだけではなかつたやうだつた。
私自身に力をつけるためもあつたやうだ。と云ふのは、人は貧困や、負傷やのドタン場に陥ると、死に近づいてゐることのために、かへつて生命の方に向つて、あらゆる努力で手をさし延ばすからであつた。
負傷者自身が、もう生命への気力が萎えてしまふと、今度は、側の者が、その人間になり代つても、何とか出来ないかと、夢中になるのであつた。それは理屈ではなかつた。同情や憐愍と云ふ言葉にも嵌り切らない、何か本能的のものであつた。
ジワジワと習慣的に貧困に慣れ、習慣的に栄養不良や、栄養不足から、生命を離れ
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