と云ふのであらう、未だ海峡を渡つて、内地へ来て一年にもならない、その六つになる子は太田に云つた。
 太田は幼い従弟を道に下した。
 そこで、私たちは始めて子供の傷口をよく見たのだつた。
 傷口は眉の間の所謂急所であつた。少し右の方に寄つてゐるかと思はれた。見たところ大した傷ではなく、血も、もう止つてゐた。
 子供も、もう尻を引つぱたかれないでいいのだと云ふことが分つたのと、傷も大して痛くないと見えて、ニコニコしながら、可愛いい朝鮮の言葉で、太田に何か話しかけてゐた。
 その子は全く可愛いい顔をしてゐた。殊にその下ぶくれの頬と、澄み切つた瞳とが、可愛いい上に聡明な印象を与へてゐた。
 私は言葉は分らなかつたが、その子や、その子の友達たちと遊んだものだつた。さう云ふ時、両親について来てもう長くなる子だの、内地に来てから生れた子だのが通訳してくれるのだつた。それによると、その万福と云ふ子は、見たところ以上に聡明であつた。
 私は「朝鮮人」と云ふ言葉を使はないやうにしてゐた。無論「鮮人」とは云はなかつた。が、悲しいことには、工事場には、さう云ふ言葉が、言葉そのものは仕方がないとしても、軽蔑や侮蔑の意味を含めて使はれることがあつた。私が、若い頃マドロスとして、印度あたりまで行つた時、欧米人などに、どことなく差別的に見られたりして「こいつはいけない」と思つてから、私はヨーロッパ人だから優越してゐるとも思はない代りに、インド人でもアフリカ人でも、支那人でも、朝鮮人でも、私よりも劣つてゐるなどとは思はなくなつてゐた。
 医者に行つて、手当を受けた結果、
「傷は幸に、極く軽くて、一週間もすれば全癒するだらう」
 と云ふことであつた。太田も私も心からホッとして、帰りには、その子供に菓子を買つてやり、冗談を云つてカラカつたりしたのだつた。
 その後帳場で太田に会ふ毎に、私は万福の傷の経過を聞いた。太田も忙しいので、毎日見舞つてはゐないが、「悪くなつた」と云ふ話を聞かないから、きつと、「良くなつてゐるのだらう」と云ふことだつた。
 一週間目に、私は万福の住んでゐる飯場を訪問した。
 そこは、私たちの借りてゐる農家から上流四五丁の、川原の砂つ原に建つてゐた。発電所と電車との二つの工事の労働者が集まつてゐて、この峡谷の底に五千人から七千人位の労働者と、その家族がゐたので、一つのバラック街を形
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