じてゐるに違ひない」と。
 子供が急いで急坂を上るのは、私の身心から発散する墓場の雰囲気が恐ろしかつたのだと、私は考へた。
 無理もない話であつた。私は全三ヶ月間、生と死との事ばかり考へてゐた。それに附随して湧き起つて来る問題を考へてゐた。さう云ふ風な考へ事に没頭してゐれば、具体的な、現実的な生活からも、生活手段からも離れて行くことは自明の理であつた。
 私たちは「死」を売り物にする訳には行かなかつた。坊さんでさへ、昔のやうには「死」を売りものに出来ない時代なのだ。
「生」を売りものにするのも、私の場合では至難であつた。生命そのものすら売り物にしにくい場合に、生命とは何ぞや、と云ふやうなことを、無学無智な私などが、どのやうに堂々巡りをして考へたつて、それが商品にならないのも分り切つたことだつた。
 生命とは「馬鹿気たものだ」と云ふ途方もない結論に到達することを、私は怖れた。まして生命とは苦痛だ、と云ふ風な結論に私は絶対に入りたくなかつた。
 かう云ふ風な考へ方が、かう云ふ風な文章、又は言葉で、私の頭の中で考へられた訳ではなかつた。
「もう政治とは絶対に縁を切る!」
 と云つた風な想念の断片が、私の頭をかすめるのであつた。
 だが、私は今まで一度だつて、政治家になつたことはないし、なりたかつた事もないのだ。まして、私が政治と縁を切ると決めようが、決めまいが私の一時一瞬の生活も、政治の下にあるのだ。私の考へや決心などは全つ切り問題にはならないのだ。
 要するに生命と云ふものは、動物的なものなのだ。この動物的な生命を、生き甲斐のあるやうにするのには、動物的な生活態度が必要なのだ。
 兎や雷鳥が、雪の降る時に白色に変り、草の萌え茂る時に、その色に変るやうに、カメレオンのやうに、絶えず変色したり、尺取り虫見たいに、枯枝と同じ色をして、力んでピンと立つてゐれば、生命と云ふものは保つものなのだ。
 それは何等卑下する必要のないことなのだ。大体、命と云ふものがそんなふうなものなのだからだ。
 だが、動物も人間となると、勿体をつける必要が生じて来るのだ。余りアッサリし過ぎてもいけないし、正直過ぎても困るのだ。
 かう云ふ風なことを考へてゐる人間は、子供と喜を共にすることが、時とすると困難になつて来る。

    四

 私はもう、私には見切りをつけた。
 何の才能もないし、学問もない
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