ことは珍しくなかった。だが、どんな怨霊も、樫の木の閂で形を以って打ん殴ったものはなかった。で、無形なものであるべき怨霊が、有形の棍棒を振うことは、これは穏かでない話であった。だが、困った事には、怨霊の手段としての、言論や文字や、棍棒は禁圧が出来たが、怨霊そのものについては? こいつは全で空気と同じく、あらゆる地面を蔽ってはいたが、捕えるのに往生した。

 下の関行きの、二三等直通列車が走った。
 彼は、長い時間を食堂車でつぶして、ビールの汗で体中を飴湯でも打っかけられたように、ネチャつかせながら、彼の座席へ帰った。処が、彼が座席の上に置いてあったバスケットは、そこに無かった。
 そこには、網棚から兵児帯を吊して、首でも縊る時のように、輪の中へ顎を引っかけて、グウグウ眠っている男があった。
 車室はやけに混んでいた。デッキには新聞紙を敷いて三四人も寝ていた。通路にさえ三十人も立ったり、蟠ったりしていた。眼ばかりパチパチさせて、心は眠ってるのもあった。東京の空気を下の関までそっくり運ぼうとでもするように車室内の空気はムンムン沈澱していた。
「図太え野郎だ。ハッハッハ、変ってやがらあ。首っ吊りしてやがらあ。はてな、俺のバスケットをどこへ持って行きやがったんだろう。おや、踏んづけてやがら、畜生! 叶わねえなあ、こんな手合にかかっちゃ。だが、この野郎白っぱくれて、網を張ってやがるんじゃねえかな。バスケットの中味を覗いたのたあ違うかい? 冗談じゃあねえぜ、余りやり方がしぶといや。薄っ気味が悪いや。何だい、馬鹿にしてやがら、未だ小僧っ子じゃないか。十七かな、八かな。可愛い顔をしてらあ、ホラ、口ん中に汗が流れ込まあ」
 彼は、暫く凭れにかかって、少年を観察していた。
 少年は疲れた顔を、帯の輪の間に突っ込んで、深い眠りに眠りこけていた。
「兄さん。おい、兄さん。冗談じゃないぜ息が詰っちまうぜ」
 彼は、暫くして少年を揺り起した。少年は鈍く眼を開いた。そして両手をウーンと張り上げた。隣の人の耳を小突きながら、隣の人は小突かれると、反対の通路の方へガックリと首を傾けた。
「どうしたんだい。兄さん、首っ吊りするって訳じゃねえだろうな」
「うん」
 少年は再び眼を瞑ろうとした。
「おい、兄さん。そりゃお前のバスケットかい?」
 彼は少年の踏んでいるバスケットを顎でしゃくって見せた。
「じゃ、お前のかい?」
 少年は眼を瞑ったまま、聞きかえした。
 彼は度胆を抜かれた。てれかくしに袂から敷島を出して火をつけた。
(何てえ奴だ! 途方もねえ野郎だ。え、「じゃ、お前のかい?」ってやがる。それじゃ一体あのバスケットは、誰のものなんだい? 尤もそう云やあ、此小僧っ子の云う事がほんとには、ほんとなんだがな。それゃ、俺のものでもねえし、又此小僧っ子のでもねえんだ。だが、そいつを此小僧奴知ってやがるんだろうか。知ってなきゃそんな無茶苦茶な事が云える筈がなかろうじゃないか。え、都合によると、こりゃ危いかも知れねえぞ)
 だが、彼はそこでへまを踏むわけには行かなかった。それが誰のものだろうが、そのバスケットは自分のものでなければ収拾する事が出来なかった。
「だって兄さん。そりゃ俺んだよ。踏んづけちゃ困るね」
「そんな大切なものなら、打っ捨《ちゃ》らかしとかなけゃいいじゃないか」
 少年は眼を瞑ったまま、バスケットから足をとった。
 生々しい眉間の傷のような月が、薄雲の間にひっかかっていた。汽車は驀然と闇を切り裂いて飛んだ。
「冗談云うない。俺だって一晩中立ち通したかねえからな」
「冗談云うない。俺だってバスケットを坐らせといて立っていたくねえや」
「チョッ、喧嘩にもならねえや」
「当り前さ」
 少年は眼を開いた。そして彼をレンズにでも収めるように、一瞬にしてとり入れた。
「喧嘩にゃならねえよ。だが、お前なんか向うの二等車に行けよ。その方が楽に寝られるぜ。寒くもねえのに羽織なんか着てる位だから。その羽織だって、十円位はかかるだろう。それよりゃ、二等に行って、少しでも三等を楽にしろよ。此三等を見ろよ。塵溜だってこれよりゃ隙があらあ。腐らねえで行く先まで着きゃ不思譲な位だ。俺たちゃ、明日から忙しいから、汽車ん中で寝て行き度えんだよ」
「どこへ行くんだい?」
「お前はスパイかい?」
「え?」
「分らねえか、警察の旦那かって聞いてるんだよ」
 彼は喫驚《びっくり》すると同時に安心した。
(こいつあ、仲間かも知れねえぞ!)
「俺は商人だよ」
「そうかい? 何しろ、此車にゃスパイが二十人も乗ってるんだからな。俺はまたお前もそうかと思ったよ」
「どうしてだい?」
 だが彼は今度はびっくりした。
(おどかしやがる。二十人! 穏かじゃねえや。だが、どうして此小僧がそれを知っているんだ。どこまで此小僧は人を食ってやがるんだろう)
「ナアに、俺たちに一人ずつ跟いて来たんだよ。余り数が多いから一々顔が覚えてられねえんだよ。向うだって引継ぎの時にゃ、間誤つくだろうよ。ほら」
 少年は通路に立っている乗客の方を、顎でしゃくって見せた。
「あれが、御連中だよ」
(だが、何だって此小僧奴は子供らしくねえんだろう。まるで四十になる俺と同年配ででもあるような、口の利き方をしやがる。それに云う事だって、理窟許り云ってやがる。顔付きにも似合わねえ野郎だ! だが、待てよ。「俺たちに一人ずつ附いてる、ってやがったな。然らば何だ! こいつ等は?――彼は、然らばと云う言葉を、刑務所で覚えたのであった。――然らばこの小僧は一体何だ?」一人連れていてその癖、網棚から首なんぞ吊るしやがって、横柄な顔をして大鼾で寝てやがる。何を為たんだ、何を。何者だ?)
「それで何かい。その、お前は一体何をやらかしたんだね?」
「何もやらかしゃしねえよ。これからやりに行く処なんだ。だが、お前さん、何だぜ、俺と話しをしてるとお前さんの迷惑になるかも知れねえぜ」
(此野郎。俺の言うことを先に言ってやがらあ。だが、どうだい、危ねえ処に乗り込んだもんじゃねえか。いけねえ)
「そりゃ又どう云う訳でかい?」
「訳なんぞあるもんかい。俺たちと話ししてりゃ片っ端から跟けられるに決まってらあね」
「だから、お前は一体何だ、と聞いてるんだよ」
「俺かい? 俺は労働者だよ」
「労働者? じゃあ堅気だね? それに又何だって跟けられてるんだい?」
「労働争議をやってるからさ。食えねえ兄弟たちが闘ってるんだよ」
「フーン。俺にゃ分らねえよ。だが、お前と口を利いてると、ほんとに危なそうだから俺は向うへ行くよ。そらバスケットを取ってくんなよ」
「ほら。気をつけなよ」
「お前の方が、気をつけろよ。飛んでもねえ話だ」
 彼は、針でも踏みつけたように驚いた。
(気をつけろってやがる。奴は俺を見抜いてやがるんだ。物騒な話だ)
 彼はバスケットを提げて、食堂車を抜けて二等車に入った。
 二等車では、誰も坐っていない座席に向って、煽風機が熱くなって唸っていた。
 彼は煽風機の風下に腰を下した。空気と座席とが、そこには十分にあった。
 焙られるような苦熱からは解放されたが、見当のつかない小僧は、彼に大きな衝撃を与えた。
(あの小僧奴、俺の子供位に雛っ子の癖してやがって!)それでいて、その小僧っ子の見てい、感じてい、思ってい、言う言葉が、(親位な俺に解らねえなんて)
 彼は車室を見廻した。人は稀であった。彼の後から跟いて入って来た者もなかった。
(どうにも疑もかけられなかった。危え瀬戸際だったよ、だが、小癪な小僧だよ。あいつは)
 彼と、彼を愕かした少年との間には、言葉の異う二つの国民位の、距離があった。彼には、その少年は、云わば怪物であった。警察や、町などで、彼の知っていた少年とは似てもつかない、妙な訳の分らないものであった。それは、何か知ら追っかけられるような、切迫した感じで彼をつっ突いた。彼は、その本能的な、その上、いつまでも人生の裏道を通らねばならないことから来る、鋭い直感で、大抵一切のことを了解した。今度はどの位だな、と思っていると、大抵刑期はそれより一年とは違わなかった。――一年の人間の生活は短くない。だが、無頼漢共を量る時には、一年の概念的な数字に過ぎなかった。その一年の間に、人間の生活が含まれていると云う事は考えられなかった。それは自分には関係のない一年であった。その一年の間に、他人の生活の何千年かを蛹にしてしまう職業に携っている、その人間の一年では絶対にないのであった。その人は、社会的に尊敬され、家庭的に幸福でありながら、他の人の一生を棒に振ることも出来た。彼には三百六十五日の生活がある! 彼には、三百六十五日の死がある。――
 今度は、三ヵ月は娑婆で暮したいな、と思うと、凡そ百日間は、彼には娑婆の風が吹いた。家の構えで、その家がどんな暮し向きであるかを知った。顔や、帯の締め工合で、そいつが何であるかを見て取った。
 だが、あの不敵な少年は、全で解らなかった。
(あいつは、二つのメリケン袋の中に足を突っ込んでいた。輪になった帯の間から根性に似合わない優しい顔が眠っていた。何を考えているんだか、あの眼の光は俺には解らなかった。旦那衆のように冷たくは光らなかった。憤って許りいるような光でもなかった。涙を溜めてもいなかった。だが、俺を一度でおどかしやがった。フン、俺も大分焼が廻ったな。あんな小僧っ子の事で、何だ、グズグズ気をとられてるなんて、他事《ひとごと》じゃねえや、こちとらの事だ。間誤ついてると、細く短くなっちゃうぞ)
 汽車が、速度をゆるめた。彼は、眠った風をして、プラットフォームに眼を配った。プラットフォームは、彼を再び絶望に近い恐愕に投げ込んだ。
 白い制服、又は私服の警官が四五十人もそこに網を張っていた。
 汽車はピタッと止った。
 だるい、ものうい、眠い、真夜中のうだるような暑さの中に、それと似てもつかない渦巻が起った。警官が、十数輛の列車に、一時に飛び込んで来た。
 彼は全身に悪寒を覚えた。
(畜生! 大袈裟に来やがったな。よし、こうなりゃやけくそだ)
 恐愕の悪寒が、激怒の緊張に変った。匕首《あいくち》が彼の懐で蛇のように鎌首を擡げた。が、彼の姿は、すっかり眠りほうけているように見えた。
 制服、私服の警官隊が四人、前後からドカドカッと入って来た。便所の扉を開いた。洗面所を覗いた。が、そこには誰も居なかった。
「この車にゃ居ない!」
「これは二等だ、三等に行け!」
「発車まで出口を見張ってろ!」
 二人の制服巡査が、両方の乗降口に残って他のは出て行った。
 プラットフォームは、混乱した。叫び声、殴る響、蹴る音が、仄暗いプラットフォームの上に拡げられた。
 彼は、懐の匕首から未だ手を離さなかった。そして、両方の巡査に注意しながらも、フォームを見た。
 改札口でなしに、小荷物口の方に向って、三四十人の人の群が、口々に喚き、罵り、殴り、髪の毛を引っ掴みながら、揺ぎ出した岩のようにノロノロと動いて行った。
 その中に、(見当のつかなかった小僧)が小荷物受渡台の上に彼自身でさえ驚くような敏捷さで、飛び上った。そして顔中が口になるほど、鋭く大きい声で叫んだ。帽子を引き千切るようにとって、そいつを下に叩きつけた。メリケン粉の袋のようなズボンの一方が、九十度だけ前方へ撥ね上った。その足の先にあった、木魚頭がグラッと揺れると、そこに一人分だけの棒を引き抜いた後のような穴が出来た。
「同志! 突破しろ……」
 少年が鋭く叫んだ。と同時に彼の足は小荷物台から攫われて、尻や背中でゴツンゴツンと調子をとりながら、コンクリートの上へ引きずり下された。
 汽車は静に動き出した。両方の乗降口に立っていた制服巡査は飛び下りた。
(畜生! 弁当も買えやしない。何だ、あれは、一体)
 思わず、彼は深い吐息をついた。そして、自分の吐息の大きさに慌てて、車室を見廻した。乗客は汽車が動き出すと一緒に、長くなったり、凭れに頭を押しつけたりして、眠りを続けた。
(何者だろう? あいつ等は一
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