下の関行うううき」
 駅手が朗かな声で、三等待合室を鳴り渡らせた。待合室はざわめき始めた。
 ニョキニョキと人々は立ち上った。
 彼は瞬間、ベンチの凭《もた》れ越しに振りかえった。誰も、彼を覘ってはいなかった。それと思われるのが二人、入口の処でゾロゾロ改札口の方へ動いて行く、群集を眼で拾っていた。
 彼は、立ち上って、三つばかり先のベンチへ行って、横目で、一渡り待合室を見廻した。幸、眼は光っていなかった。
「もっとも、俺の顔を知ってる者はいないんだからな。それに、俺だけが怪しく見えもしないんだからね。何しろ奴等にゃどいつもこいつも泥坊に見えるんだからね」
 彼は、ベンチへ横になった。そして自分の寝ているベンチと並んでいる、外のベンチを検《しら》べて見た。頭を掻くような恰好をした。と、彼はもう帽子を被っていた。麦藁帽であった。彼の手が、ブルッと顔を撫でると、口髭が生えた。さて、彼は、夏羽織に手を通しながら、入口の処で押し合っている、人混みの中へ紛れ込んだ。
 旦那の眼四つは、彼を見たけれど、それは別な人間を見た。彼ではなかった。
「顔ばかり見てやがらあ。足や手を忘れちゃ駄目だよ。手にはバ
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