乳色の靄
葉山嘉樹

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)眩《めまぐる》しい
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 四十年来の暑さだ、と、中央気象台では発表した。四十年に一度の暑さの中を政界の巨星連が右往左往した。
 スペインや、イタリーでは、ナポレオンの方を向いて、政界が退進した。
 赤石山の、てっぺんへ、寝台へ寝たまま持ち上げられた、胃袋の形をしたフェットがあった。
 時代は賑かであった。新聞は眩《めまぐる》しいほど、それ等の事を並べたてた。
 それは、富士山の頂上を、ケシ飛んで行く雲の行き来であった。
 麓の方、巷や、農村では、四十年来の暑さの中に、人々は死んだり、殺したり、殺されたりした。
 空気はムンムンして、人々は天ぷらの油煙を吸い込んでいた。
 一方には、一方の事は、全で無関係であった。勝手に雲が飛び、勝手に油虫どもが這い廻っているようであった。
 人々は、眼を上げて、世界の出来事を見ると、地獄と極楽との絵を重ねて見るような、混沌さを覚えた。が、眼を、自分の生活に向けると、何しろ暑くて、生活が苦しくて、やり切れなかった。
 その、四十年目の暑さに、地球がうだって、鮒共が総て目を白くして浮び上ったと思うことは、それは間違いであった。どこにでも避暑地と云うものがあった。日本には軽井沢があり、印度にはダージーリンがあり、アメリカには、ロッキーがあった。
「人間どもは、何だって、暑い暑いとぬかしながら、暑い処にコビリついているんだ。みんな足をとられてやがる。女房子に足をとられたり、ガツガツした胃袋に足をとられたり、そう云う、俺だって、ざまあねえや、今まで足をとられていたじゃねえか。俺のは、鎖がひっからまって! 動きがとれなかったんだ。そこへ持って来て、手を縛って、梁へ吊しやがったな。おまけに竹刀でバシバシと、すこたんを遠慮なしに打ん殴りやがったっけ。ああなると意気地のねえもんだて、息がつけねえんだからな。フー、だが、全く暑いよ」
 彼は、待合室から、駅前の広場を眺めた。
 陽光がやけに鋭く、砂利を焙った。その上を自動車や、電車や、人間などが、焙烙《ほうろく》の上の黒豆のように、パチパチと転げ廻った。
「堪らねえなあ」
 彼は、窓から外を見続けていた。
「キョロキョロしちゃいけない。後ろ頭だけなら、誰って怪しみはしないさ。キョロキョロしてはいけねえ。眼が打っ突る!
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