此儘行ったんじゃ困る。家中に二十銭しかない。二十銭では何ともならない。何とか都合しといてからでないといけない。おふくろも子も乾上っちまう。さて)
 吉田は、そう考えることによって、何かのいい方法を――今までにもう幾度か最後の手段に出た方がいい、と考えたにも拘らず、改めて又、――いい方法を、と、それが汗の中にでもあるように汗みどろになって、全速力で考え初めた。だが、汗は出たが、いい考えが浮く筈がなかった。
「明日でもいいでしょう、と云ったんだが、どうしても直ぐにって署長の命令だからね、済まないが、直ぐに来て貰いたいんだ。直ぐに帰すからね」
 中村は、こう云うと、又煽ぎ立てた。
(へ、すぐに帰す! 極り文句を云ってやがらあ)
「何しろ夜中じゃしようがないよ。子供を手離せないもんだからな。嬶が病院に行ってるから、一人は俺が見てやらなけゃ、ならないんだよ。まあ、朝まで待って呉れよ」
 子供は、吉田と中村との話を、鋭く聞いていた。そして、自分が生れると直ぐの年から、母親の背に縛りつけられて、毎年、警察や、裁判所や、監獄の門を潜ったことを思い出した。
「父ちゃん、いやだよ。行っちゃいやだよう」
 泣き声と一緒に、訴えるような声で叫んで、その小さな手は、吉田の頸に喰い込むように力強くからまった。
 人生の、あらゆる不幸、あらゆる悲惨に対して殆んど免疫になってはいた吉田であった。不幸や悲惨の前に無力に首をうなだれる吉田ではなかった。どんな困難な境遇に立っても客観的な立場を守って、的確な判断と作戦とを誤らなかった彼ではあった。彼の心の中にどっしりと腰を下して、彼に明確な針路を示したものは、社会主義の理論と、信念とであった。
(俺だけじゃないんだ! 三千の兄弟たちが、あの光り輝く工場の中の部署についている三千の兄弟たち、あの工場以外のどの工場にも、労働者街にも溢れている、全プロレタリアの均しく背負っている苦痛なんだ。全てのプロレタリアが此苦痛に負けた時、どうなるんだ! 勝て! 俺一人位はいいだろう、と云う怯懦の中から、全プロレタリアの陣営が総崩れになるんだ。起て! 此子供のためにも! 俺が子供に贈物にする事の出来そうな唯一の望みは、プロレタリア解放運動の上にかかっているんだ!)
「ああ、行きゃしないよ。坊やと一緒に行くんだからね。些も心配する事なんかないよ。ね、だから寝ん寝するの、いい子だからね」
「吉田君、早く来て呉れないと困るね 待っ……」
 中村は口を噤んだ。
「ハハハハハ。誰かが待ってるのかい。いいよ。待ってる方は痺れを切らしても、逃げると云う事はないからね。今行くよ」
「お前、又長くなるのじゃあるまいね」
 病み疲れた、老い衰えた母は、そう訊ねることさえ気兼ねしていたのだが、辛抱し切れなくなって、囁くように言った。
「大丈夫ですよ。お母さん、直ぐ帰って来ますよ、坊やを連れて行って来まさ」
(大丈夫ですよ、向うの気の済むまで居て来ますよ。気休めに坊やだけ、向うまで連れて行ってやりますけれどね)と云う方が真実であった。
 勿論、直ぐ帰れる筈のない事は、吉田には分り切っていた。劃時代的な二つの階級間の闘争が、全市から全日本[#「日本」に「×」の傍記]の相互の階級を総動員して相対峙していたのだ。それは国際階級戦の一つの見本であった。
「連れて行ってくれる! ね、父ちゃん。坊やを連れて行って呉れるの。公園に行こうね。お猿さんを見に行こうね。ね、そしてお芋をやろうね」
「ああ、いいとも、公園に行くんだ。そして公園でおとなしくお猿さんと遊ぼうね」
「公園に行こうね、おしゃるしゃんとあそぼうね」
 子供は、吉田の首に噛りついたまま、おしゃるしゃんと遊ぶことを夢に見ながら、再び眠った。
(六時まで待とう。六時までにはきっと何かの情報があるだろう。依田が来るだろう。そうすれば、依田に顛末を知らす事が出来る、その上で行こう、六時にはピケッチングの交替になる時間なんだから、どうしてもそれまでは待たなければならない)
 中村は「困るなあ、困るなあ」と呟きながら、品物でも値切るように、クドクドと吉田を口説いた。
 吉田の老い衰えた母は、蝸牛《かたつむり》のように固くなって、耳に指で栓をして、息を殺していた。
 ひどい急坂を上る機関車のような、重苦しい骨の折れる時間が経った。
 毎朝、五時か五時半には必ず寄る事になっている依田は、六時になるに未だ来なかった。
 ――依田君。六時まで、三時から君を待ったが、来ないから、僕はM署へ持って行かれることにする。いずれは君にもお鉢が廻るんだろうが、兎に角警戒を要する。皆やられたんじゃ仕方がないからな。それから、こんな事は云えた義理ではないんだが、僕の留守の者たちの事も気にかかる。若し、出来ればおふくろや子供の面倒を見てやって貰
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