子だからね」
「吉田君、早く来て呉れないと困るね 待っ……」
中村は口を噤んだ。
「ハハハハハ。誰かが待ってるのかい。いいよ。待ってる方は痺れを切らしても、逃げると云う事はないからね。今行くよ」
「お前、又長くなるのじゃあるまいね」
病み疲れた、老い衰えた母は、そう訊ねることさえ気兼ねしていたのだが、辛抱し切れなくなって、囁くように言った。
「大丈夫ですよ。お母さん、直ぐ帰って来ますよ、坊やを連れて行って来まさ」
(大丈夫ですよ、向うの気の済むまで居て来ますよ。気休めに坊やだけ、向うまで連れて行ってやりますけれどね)と云う方が真実であった。
勿論、直ぐ帰れる筈のない事は、吉田には分り切っていた。劃時代的な二つの階級間の闘争が、全市から全日本[#「日本」に「×」の傍記]の相互の階級を総動員して相対峙していたのだ。それは国際階級戦の一つの見本であった。
「連れて行ってくれる! ね、父ちゃん。坊やを連れて行って呉れるの。公園に行こうね。お猿さんを見に行こうね。ね、そしてお芋をやろうね」
「ああ、いいとも、公園に行くんだ。そして公園でおとなしくお猿さんと遊ぼうね」
「公園に行こうね、おしゃるしゃんとあそぼうね」
子供は、吉田の首に噛りついたまま、おしゃるしゃんと遊ぶことを夢に見ながら、再び眠った。
(六時まで待とう。六時までにはきっと何かの情報があるだろう。依田が来るだろう。そうすれば、依田に顛末を知らす事が出来る、その上で行こう、六時にはピケッチングの交替になる時間なんだから、どうしてもそれまでは待たなければならない)
中村は「困るなあ、困るなあ」と呟きながら、品物でも値切るように、クドクドと吉田を口説いた。
吉田の老い衰えた母は、蝸牛《かたつむり》のように固くなって、耳に指で栓をして、息を殺していた。
ひどい急坂を上る機関車のような、重苦しい骨の折れる時間が経った。
毎朝、五時か五時半には必ず寄る事になっている依田は、六時になるに未だ来なかった。
――依田君。六時まで、三時から君を待ったが、来ないから、僕はM署へ持って行かれることにする。いずれは君にもお鉢が廻るんだろうが、兎に角警戒を要する。皆やられたんじゃ仕方がないからな。それから、こんな事は云えた義理ではないんだが、僕の留守の者たちの事も気にかかる。若し、出来ればおふくろや子供の面倒を見てやって貰
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