片っ方の眼だけ出すと、深谷が便所のほうへ足音もなく駆けてゆく後ろ姿が見えた。
「ハテナ。やっぱり下痢かな」
 と思ううちに、果たして深谷は便所に入った。が安岡は作りつけられたように、片っ方の眼だけで便所の入り口を見張り続けた。
 深谷は便所に入ると、ドアを五|分《ぶ》ばかり閉め残して、そのすき間から薄暗い電燈に照らし出された、ガランとした埃《ほこり》だらけの長い廊下をのぞいていた。
「やっぱり便所だったのか。それにしてはなんだって人の寝息なんぞうかがいやがるんだろう。妙な奴《やつ》だ」
 と、安岡が五分間ばかり見張りにしびれを切らして、ベッドのほうへ帰ろうとする瞬間、便所のドアが少しずつ動くのを見た。ドアは全く音もなく、少しずつ開き始めた。
 深谷の姿はドアがほとんど八|分《ぶ》目どころまで開いたのに見えなかった。まるでドアが独りでに開いたようだった。安岡はゾッとした。
 と、深谷の姿が風のように廊下に飛び出して、やにわに廊下の窓から校庭に跳び出した。
 安岡の体を戦慄《せんりつ》がかけ抜けた。が次の瞬間には、まるで深谷の身軽さが伝染しでもしたように、風のように深谷の後を追った。
 深谷は、寄宿舎に属する松林の間を、忍術使いででもあるように、フワフワとしかも早く飛んでいた。
 やがて、代々木の練兵場ほども広いグラウンドに出た。
 これには安岡は困った。グラウンドには眼をさえぎる何物もない。曇っていて今にも降り出しそうな空ではあったが、その厚い空の底には月があった。グラウンドを追っかければ、発見されるのは決まりきったことであった。
 が、風のように早い深谷を見失わないためには、腹這《はらば》ってなぞ行けなかった。で、彼はとっさの間に、グラウンドに沿うて木柵《もくさく》によって仕切られている街道まで腹這いになって進んだ。
 街道に出ると、彼は木柵を盾《たて》にして、グラウンドの灰色の景色をながめた。その時にはもう深谷の姿は見えなかった。彼は茫然《ぼうぜん》として立ちつくした。なぜかならいくら風のように速い深谷であっても、神通力《じんつうりき》を持っていないかぎり、そんなに早くグラウンドを通り抜け得るはずがなかったから。
「奴も腹這いになって、障害物のない所で見張ってやがるんだな」
 安岡は、自分自身にさえ気取《けど》られないように、木柵に沿うて、グラウンドの塵《ちり》一本さえ、その薄闇《うすやみ》の中に見失うまいとするようにして進んだ。
 やや柵の曲がった辺へ来ると、グラウンドではなく、街道を風のように飛んでゆく姿が見えた。
 その風の姿は、一週間前、セコチャンが溺死《できし》した沼のほうへと飛んだ。
 安岡は、自分が溺死しかけてでもいるような恐怖にとらわれ、戦慄《せんりつ》を覚えた。が、次の瞬間には無我夢中になって、フッ飛んだ。
 道は沼に沿うて、蛇《へび》のように陰鬱《いんうつ》にうねっていた。その道の上を、生きた人魂《ひとだま》のように二人は飛んでいた。
 沼の表は、曇った空を映して腐屍《ふし》の皮膚のように、重苦しく無気味に映って見えた。
 やがて道は墓地の辺にまで、二人の姿を吹くように導いた。
 墓地の入り口まで先頭の人影が来ると、吹き消したように消えてしまった。安岡は同時に路面へ倒れた。
 墓地の松林の間には、白い旗や提灯《ちょうちん》が、巻かれもしないでブラッと下がっていた。新しいのや中古《ちゅうぶる》の卒塔婆《そとうば》などが、長い病人の臨終を思わせるように瘠《や》せた形相《ぎょうそう》で、立ち並んでいた。松の茂った葉と葉との間から、曇った空が人魂のように丸い空間をのぞかせていた。
 安岡は這うようにして進んだ。彼の眼をもしその時だれかが見たなら、その人はきっと飛び上がって叫んだであろう。それほど彼は熱に浮かされたような、いわば潜水服の頭についているのと同じ眼をしていた。
 そして、その眼は恐るべき情景を見た。
 それは筆紙に表わし得ない種類のものであった。
 深谷は、一週間前に溺死《できし》したセコチャンの新仏の廓内《かくない》にいた!
 彼のどこにそんな力があったのであろう。野球のチャンが二人でようやく載っけることができた、仮の墓石を、深谷のヒョロヒョロな手が軽々と持ち上げた。
 その石をそばへ取り除《の》けると、彼は垣根《かきね》の生け垣の間から、鍬《くわ》と鋸《のこぎり》とを取り出した。
 鍬は音を立てないように、しかしめまぐるしく、まだ固まり切らない墓土を撥《は》ね返した。
 安岡の空《くう》な眼はこれを見ていた。彼はいつの間にか陸から切り離された、流氷の上にいるように感じた。
 深谷は何をするのだろう? そんなにセコチャンと親密ではなかった。同性愛などとは思いもよらない仲であった。ほとんど一度も口さえ利いたことはなかった!
 軟らかい墓土はそばに高く撥ねられた。そして棺《ひつぎ》の上はだんだん低くなった。深谷の腰から下は土の陰に隠れた。
 キー、キー、バリッ、と釘《くぎ》の抜ける音がした。鍬で、棺の蓋《ふた》をこじ開けたらしかった。
 深谷の姿は、穴の中にかがみ込んで見えなかった。
 が、鋸が、確かに骨を引いている響きが、何一つ物音のない、かすかな息の響きさえ聞こえそうな寂寥《せきりょう》を、鈍くつんざいていた。
 安岡は、耳だけになっていた。
 プツッ! と、鋸の刃が何か柔らかいものにぶっつかる音がした。腐屍《ふし》の臭《にお》いが、安岡の鼻を鋭く衝《つ》いた。
 生け垣の外から、腹這《はらば》いになって目を凝らしている安岡の前に、おもむろに深谷が背を伸ばした。
 彼は屍骸《しがい》の腕を持っていた。そして周りを見回した。ちょうど犬がするように少し顎《あご》を持ち上げて、高鼻を嗅《か》いだ。
 名状しがたい表情が彼の顔を横切った。とまるで、恋人の腕にキッスでもするように、屍《しかばね》の腕へ口を持って行った。
 彼は、うまそうにそれを食い始めた。
 もし安岡が立っているか、うずくまっているかしたら彼は倒れたに違いなかった。が、幸いにして彼は腹這っていたから、それ以上に倒れることはなかった。
 が、彼は叫ぶまいとして、いきなり地面に口を押しつけた。土にはまるでそれが腐屍《ふし》ででもあるように、臭気があるように感じた。彼はどうして、寄宿舎に帰ったか自分でも知らなかった。

 彼は、口から頬《ほお》へかけて泥だらけになって昏々《こんこん》と死のように眠った。
 朝、深谷は静かに安岡の起きるのを待っていた。
 安岡は十一時ごろになって死のような眠りからよみがえった。
 不思議なことには深谷も、まだ寝室にいた。
 安岡が眼を覚ましたことを見ると、
「君の欠席届は僕が出しておいたよ。安岡君」と、深谷が言った。
「ありがと」安岡はしまいまで言えなかった。
「きみは、昨夜、何か見なかったかい?」と、深谷が聞いた。
「いいや。何も見なかった」安岡の語尾は消えた。
「きみの口の周りは、まるで死屍《しかばね》でも食ったように、泥だらけだよ。洗ったらいいだろう。どうしたんだね」
 深谷が、静かに言った。
 が、その顔には、鬼気があふれていた。

 それっきり、安岡は病気になってしまった。その五、六日後から修学旅行であった。
 深谷は修学旅行に、安岡は故郷に病を養いに帰った。
 安岡は故郷のあらゆる医師の立ち会い診断でも病名が判然しなかった。臨終の枕頭《ちんとう》の親友に彼は言った。
「僕の病源は僕だけが知っている」
 こう言って、切れ切れな言葉で彼は屍《しかばね》を食うのを見た一|場《じょう》を物語った。そして忌まわしい世に別れを告げてしまった。
 その同じ時刻に、安岡が最期の息を吐き出す時に、旅行先で深谷が行方不明になった。
 数日後、深谷の屍骸《しがい》が渚《なぎさ》に打ち上げられていた。その死体は、大理石のように半透明であった。



底本:「ひとりで夜読むな 新青年傑作選 怪奇編」角川ホラー文庫、角川書店
   1977(昭和52)年10月15日初版発行
   1980(昭和55)年10月25日6版発行
   2001(平成13)年1月10日改版初版発行
初出:「新青年」
   1927(昭和2)年4月号
入力:網迫、土屋隆
校正:山本弘子
2008年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
葉山 嘉樹 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング