いたことはなかった!
 軟らかい墓土はそばに高く撥ねられた。そして棺《ひつぎ》の上はだんだん低くなった。深谷の腰から下は土の陰に隠れた。
 キー、キー、バリッ、と釘《くぎ》の抜ける音がした。鍬で、棺の蓋《ふた》をこじ開けたらしかった。
 深谷の姿は、穴の中にかがみ込んで見えなかった。
 が、鋸が、確かに骨を引いている響きが、何一つ物音のない、かすかな息の響きさえ聞こえそうな寂寥《せきりょう》を、鈍くつんざいていた。
 安岡は、耳だけになっていた。
 プツッ! と、鋸の刃が何か柔らかいものにぶっつかる音がした。腐屍《ふし》の臭《にお》いが、安岡の鼻を鋭く衝《つ》いた。
 生け垣の外から、腹這《はらば》いになって目を凝らしている安岡の前に、おもむろに深谷が背を伸ばした。
 彼は屍骸《しがい》の腕を持っていた。そして周りを見回した。ちょうど犬がするように少し顎《あご》を持ち上げて、高鼻を嗅《か》いだ。
 名状しがたい表情が彼の顔を横切った。とまるで、恋人の腕にキッスでもするように、屍《しかばね》の腕へ口を持って行った。
 彼は、うまそうにそれを食い始めた。
 もし安岡が立っているか、うずくまっているかしたら彼は倒れたに違いなかった。が、幸いにして彼は腹這っていたから、それ以上に倒れることはなかった。
 が、彼は叫ぶまいとして、いきなり地面に口を押しつけた。土にはまるでそれが腐屍《ふし》ででもあるように、臭気があるように感じた。彼はどうして、寄宿舎に帰ったか自分でも知らなかった。

 彼は、口から頬《ほお》へかけて泥だらけになって昏々《こんこん》と死のように眠った。
 朝、深谷は静かに安岡の起きるのを待っていた。
 安岡は十一時ごろになって死のような眠りからよみがえった。
 不思議なことには深谷も、まだ寝室にいた。
 安岡が眼を覚ましたことを見ると、
「君の欠席届は僕が出しておいたよ。安岡君」と、深谷が言った。
「ありがと」安岡はしまいまで言えなかった。
「きみは、昨夜、何か見なかったかい?」と、深谷が聞いた。
「いいや。何も見なかった」安岡の語尾は消えた。
「きみの口の周りは、まるで死屍《しかばね》でも食ったように、泥だらけだよ。洗ったらいいだろう。どうしたんだね」
 深谷が、静かに言った。
 が、その顔には、鬼気があふれていた。

 それっきり、安岡は病気になってしまっ
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