ある。
 けれども兄弟よ。われ等は沢庵漬の諷刺から、人間へ帰らう。
 兄弟よ。われ等も人間である。人間である以上良心を持つてゐる。われ等の良心は幸にして膏薬を張つてないから、センシブルである。だから、兄弟よ。われ等は「人類の理想」へ向つて進み得るのである。良心を、余りに淫逸に耽溺させ、アルコールに麻痺させた資本家共の瘡蓋《さうがい》だらけの良心には、「人類の理想」や「地上に於ける民衆の結合」や、「神の意志の体現」などは、到底分りつこはないのである。若しそれが彼等に分るならば、彼等は自己の存在が否定さるべきものである、と云ふことも分る筈である。
 兄弟よ。地上に、「愛に依る民衆の結合」を齎さねばならぬ使命は、われ等労働者にのみ与へられたる特権であり、且は重い責任である。われ等は悪魔の誘惑にかゝつてはならぬ。どこまでもイワンの馬鹿で押通さねばならぬ。

     四

「自分さへ良ければ他は蹂躪つても構はない」と云ふ考へは、他の其思想と衝突する。皆が他人を蹴倒して自分の利を追ふことになれば、多分皆の人が傷ついて倒れるであらう。又倒れつゝあるのである。
 人類は「愛」に依つて美しい結合をしないで、「利」によつて緊縛されてゐる。
 兄弟よ。心に何の蟠りなく、利害の関係なく、人と人とが語り合ふ時、どんなにそれは柔和な、清い、平和な関係であらう。
 二人で或仕事を初めて、一人は出資者で一人は実際に当るとして仕事の利益が思はしくない時、出資者は日歩三銭の利を八釜しく云ふとすると、その二人は時にふれ折につけて共に酒を飲み、遊楽を共にしてゐても「日歩三銭」の処で行き詰つてしまふのである。
 そして仕事に当つてゐる者は苦し紛れに、局外者に泥を吐いて救助を求めることになるのである。
 兄弟よ。利を追つてはならぬ。利を追ふと、真実兄弟のために尽す人と、われ等の前に棒に縛りつけた肉を突き出す人とを、混同してしまふであらう。
 兄弟よ。私は私の持つてゐる思想の一通りを茲に略述して筆を擱くことにする。
 兄弟よ。われ等が望む処は、今資本家及其傀儡が行ひつつある、物質的栄華であつてはならぬ。それを望むは恥づべきことである。われ等の否定するものをわれ等が内心に於て望んでゐることは、全く唾棄すべきことである。
 若し物質的栄華を得ることが、われ等の希望する処であるならば、その事は望まないでも行はれてゐるではないか。若しそれは少数者のみであつて万人ではない、と云ふならば、万人がさうなつた時、諸君の望んでゐた物質的栄華はどこを見ても無くなるだらう。
 兄弟よ。富や悦楽は相対的なものである。それを追ふのは、自分の影を一生懸命追つ駆けるのと同じことだ。
 富を追ふことにわれ等の意志が有るとすれば、われ等は資本家に何を要求し、何の故を以て恨む処があるか。彼はかう答へるであらう。「俺にも未だ充分な富はない」と。
 われ等は富を追はないで、貧を追ふために、そこにこそたゞ一つ神の国に入るの道が残されてゐるのである。われ等は決して資本家の富を奪還しようとするのではない。われ等の虔譲なる生命までも彼が拒否しようとすることを詰《なじ》るのである。
 資本家諸子よ。労働者も人間である。虔譲なる神の子である。人間として同胞として、等しく日本国民として、彼等に良心を以て対せられよ。諸子が若し彼等を恐れ疎遠して、彼等を生命の不安に突つ込むならば、責任は諸子の方にあるのである。諸子は枯尾花を幽霊と思つてはならぬ。況して人間を獣と見てはならぬではないか。

     ○

 現世に極楽が来り、地上に天国が齎されるのは何時か。それは地上の人類が眼覚めることによつて即座に出現されるのである。
 この考へを空想と嘲り、夢だと笑ふことによつて、人類は自分自身の神の国を、悪魔の祭壇に供へてゐるのである。
 この迷蒙を捨ることが一人でも多くなればなるほど、神の国は近づいて来るのである。
 釈尊やクリストが地上に現れて神の国の理想を説いてから二千年乃至三千年になる。それにも拘らず人類は些《すこし》も神の国に近づかうとしない、などと遁口上《にげこうじやう》を言つてはならない。仏の慈悲、神の愛を知つたものは、知つただけで、神の国へ近づいてゐるのである。
 兄弟よ。悪魔のあらゆる誘惑を斥けて、神の国に進まう。われ等の体の中には、神と悪魔が同居してゐるから、神のみを見なければならぬ。
 兄弟よ。神を知り、神の御名《みな》による天国を地上に齎さうではないか。
 爾《なんじ》、国《みくに》を来らせ給へ、御心の天に成る如く地にも成らせ給へ。
[#地から1字上げ](大正十年六月)



底本:「筑摩現代文学大系 36 葉山嘉樹集」筑摩書房
   1979(昭和54)年2月25日 初版第一刷発行
※底本は、物を数える際や地名な
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