が、このころの僕は煙みたいにフラフラして、地についていない、生意気な学生だったんだ。本を読むことのむだを知り、僕の頭の従って、カラッポであることを自覚した僕は、生活を得ようと考えたんだ。生活は学校を出て、その免状で月給にありついて、その範囲外は家からの補助で送るのが、生活じゃないことを僕はさとったんだ。生活とは、燃えるものだと僕は思ったんだ。焼け尽くすような、爆発するようなものが生活だと僕は考えたんだ。おれは親の金で教育を受けている。それやおれが生きてるという事にはならないんだ。おれが生きてるためには、おれが自分を活《い》かさなきゃならないんだ。おれは、おれの腕で食おう! と僕は決心したんだ。そこで、僕は毎朝、下宿を弁当を持って出て、友人の所へ書物を預けて置いて、工場を回り歩いた。そして、Aという工場に旋盤見習いではいった。
 工場生活は、非常に苦しかった。学生の生活とくらべて、溝《どぶ》のように悪かった。朝から夜まで、仲間の労働者さえも、見習いの僕を敵視するように思われた。単純に物事が運ばなかった。僕は、今ではあたり前だと思っているので、自分でも驚くのだが、『伍長《ごちょう》のところへ行って、グレインを借りて持って来い』などいわれて、どのくらいそのために恥をかいたり、方々駆けずり回ったりしたかしれなかった。僕は、ここにも生活はない、と思い初めていた。けれどもそこは、学生とちがったところがあった。真剣だった。そして、だれもが、心の底になにか雪雲のように陰欝《いんうつ》なものをたくわえていた。どんな若い労働者でも、不平をいっていた。そして、彼らは、その生活が悪いと考えていた。僕もはなはだ悪いと思っていた。そこで、僕らは、いい生活を考えるのだった。こんな生活はいけない。
 こんな生活は、あそこがこういけない、ここがあアいけないとすっかりわかってるんだ。そこで、いい生活はここをああ、あそこをこうと、旋盤をにらみながら一日に十四時間も十六時間も考えるんだ。それを、やっぱり仲間たちも、多いか少ないかだけで、考えるには考えているんだ。
 『いい生活を人類のために求める。そこにおれの生活があるんだ』と、こう僕は、フト旋盤に送りをかけて、腰をおろす途端に考えたんだ。それから僕は、本を読む代わりに、自分たちの生活を見つめるようになった。僕はまるで僕自身を仇敵《きゅうてき》のように白い目でにらんだんだ[#「にらんだんだ」は筑摩版では末尾の「んだ」なし]。工場へ五時に来てから、幾度も小便に行った。そのうちほんとうにしたかったのが幾度、あとは、とにかく場処を動きたかったからだ。倉庫番(工場の)のところまで何歩あるか、何秒かかるか、それだけをゆっくり歩くことを、なぜ職長はとがめるか、職長は労働者か、それとも何か、とそんなふうに愚の骨頂のようなことから、その他さまざまなことが、僕の頭を根限り追いまくった。
 そして僕には、僕が学生であった時代が恥ずかしくなった一時代が来た。僕はそれから、性格が一変したんだ。それまでは、僕は、ほとんどだれからも愛される質《たち》だったんだ。そして近づきやすい青年だった。ところが僕が、学生時代をのろい始めると共に、職工時代をものろい始めたんだ。つまり、その『恥ずべき学生のおれを、今の職工のおれたちが養っていたし、これからも養ってやらなきゃならないんだ』と、ちょうど僕が、この正体の知れない考えにとらわれた時に、一人《ひとり》の職工と知り合いになったんだ。
 『人間はなぜ働かねば食えないんだか知ってるか、お前』とそいつがいうんだ、僕はしばらく黙っていた。すると、
 『人間はなぜ働かねえやつがぜいたくだか知ってるか、え』とそいつがまたいうんだ。
 『人間は苦しんでるんだ』と僕がいったんだ。
 『そうだ。一人のために千人が、十人のために一万人が』とそいつがいったんだ。僕はわかった。その労働者は、白水《はくすい》という名前だった。
 それから僕はその男とつき合うようになったんだが、その白水という男は全く珍しく意志の強固な、感情を理知でたたき上げて、火のような革命的な思想を持ち、それを僕らが飯でも食うように、平気で、はた目からは習慣的に見えるほど、冷静に実行する男だった。A工場では、だれもその男を尊敬していた。会社では、その男を馘首《かくしゅ》しようとして、あらゆる手段をめぐらした。そして、それは白水も十分に感づいていたようだった。彼は、目だけを光らして、ほとんど上役と口をきくようなことがなかった。上役も彼を見ると、なるべく避けて歩いてるように見えた。彼は、朝から終業まで、熱心に旋盤にかじりついて、仕事をした。そして、不思議なことは、彼は、特に能率を上げたこともなく、下げたこともなかった。いつも一生懸命でやっていて、そして彼の能率は中ちょっと以下であった。彼の熟練には、職長も文句が出なかったんだ。彼はA工場の技師長[#「技師長」は底本では「技師」と誤記]と同期で大学を出た、といううわさがあったんだから。ところが白水は学校には、実際は行っていないらしいんだ。しかし、また驚くほど独学をやったらしいんだ。彼は僕と違って、読むべきものを知っていたんだ。探《さが》す目的を持っていたんだ。それに[#「それに」は底本では「それは」と誤記]、白水は、前科が四犯あったんだ。その各《おのおの》の入獄時代に外国語も研究したらしいんだ。年は見たところ三十にも見えるんだが、実際は二十六だった。彼は、資本家からも、労働者からも、別々な立場と意味とからで注目されていたんだ。それはきたない、暗い六畳の間だった。それを白水は借りたんだ。そして彼はそこで自炊を始めたんだ。しばらく彼がそうしているうちにその六畳の間は、いつでも夜になると、労働者が五、六人集まっていないことはなくなった」

     一二

 藤原は熱心に語った。彼は、白水を目の前に置いて、話してでもいるように、感激し、幸福そうに自分の話に酔っているのであった。彼は、ここまで話して来て、その好きな煙草《たばこ》に火をつけて、肺臓全体に煙の行きわたるように、深く鋭く、煙をすった。
 波田は、熱心に聞いていた。そして、白水というのは、藤原の前名のことではあるまいか、と、藤原の話の合い間合い間には疑ったりしていた。それは、藤原によって語られ、表わされる白水ではあるにしても、あまりによく藤原に似すぎていた。けれどもそれはどうでもいいことであった。
 「フーム、鉄工産業の労働者は頼もしいね」と、波田は詠嘆的にいった。
 「労働者は、主人になるんだからね、労働者の手によって、平和と幸福とがあがなわれるんだからね」ストキは、ホッとしたようにしていった。
 「それから、その男はどうしたんだね」と、波田は本をいじりながらきいた。
 「白水は、自分の六畳の薄暗いというより、ほとんどまっ暗な間《ま》を、夜間――昼間でもいいのだが、昼間は皆仕事に出るのであった。が、中には、昼間弁当を持って本を読みに来る者もあった――開放したのであった。そして、顔は変わっても、数はいつでも大抵五、六人、多い時は十五、六人も集まった。そして、そこでいろんな話が取りかわされた。僕も、その集まりには毎晩出たものだった。
 白水は、彼の室では、またはその集まりでは、まるで工場における彼とは別人のように柔和に、そして気軽になるのだった。最初の間は、だれでも不思議に思うのだった。だれかが『白水君は、工場と、家とに別々な全く異《ちが》った白水君を持ってるんだね』といった時、彼はこう答えた。
 『それや僕に限ったこっちゃないぜ。君だってそうじゃないか、機械の付属品たる君と、妻君のための君と、奴隷としての君と、君の主人としての君と、だれだって、労働者はこの二つの人格を持っていないものはないだろう。君だって、機械の付属部分として働いてる時の顔つきや気持ちと、今の、それ、細君や、子供のための君としての顔つきや気分の方が、どのくらいなつかしい、親しい人間だかわからないよ。燈台下暗しだぜ、ハッハッハハハ』と。そこに居合わせた者も、皆声をそろえて笑った。彼の説明は按摩《あんま》のように人を柔らかにし、その疑いを解いたんだ。
 そして、話はいつも、こういったふうな冗談から口を切られて、なぜ労働者が機械の付属部分であるか、という質問が生じて来るのだった。それには白水君がだれも返答しない時に、ゆっくりと、よくわかるように、説明を加えるんだ。
 こういうふうにして、そこに集まって来る労働者は、必ず、一つずつか、二つずつか、自分自身の身の上の解剖を会得して帰って行くようになった。
 こうしている間にも、白水は、絶えず、警察から、尾行されたり、張り込みされたり、呼び出しを受けたりするんだった。そして、それが、毎晩そこに集まることが原因であることが、そこへ集まってくる人たちにもわかって来るのだった。
 そのうちに、そこへ絶えず集まる者には、たとえばぼくらなどにも、時々警察の目が光るようになって来たんだ。それがなぜだかわからなかったんだ。しかし、若い者は警察からかれこれいわれることに対して、非常な反感と、従って、それを激成するような、立場になって行くのだった。彼らは今まで無邪気に聞いていた。しかし、警察が彼らの私宅を訪問したり、その工場を訪《たず》ねたりするようになると、彼らは真剣に聞くようになって来た。そして、警察をだんだん恐れぬようになって行った。
 『おれたち自身が何であるかを、おれたち自身で研究することが、なぜ悪いんだ』と、若い労働者たちは、警察の刺激の洗礼を受けると、一種の無産階級信念――を抱《いだ》くようになって来たんだ。
 そして、ついに、警察によって刺激された若人《わこうど》どもは、立派な『無産階級軍の前衛隊』となり、なお加えらるる試煉によって、牢獄《ろうごく》も、絞首台も、恐るるに足らずという、固い信念の中に、生きるようになったんだ。そうして、そうなると、そこに待っていたものは、彼らの尻《しり》を引ったたいた鞭《むち》が、こしらえて待っていた陥穽《おとしあな》であった。いよいよ彼らは、現実に牢獄の塀《へい》に打《ぶ》っ突からねばならなくなったんだ。
 ある年の秋だった。A工場のあるN市は、日本全国を襲った暴風雨の襲撃をこうむった。その程度は日本の諸都市中で最もみじめな部分に属するほどであった。
 風が強くて、雨が横から吹いて、傘《かさ》がさせなかった。屋根|瓦《がわら》が吹き飛ぶので、街《まち》に出られなかった。海岸部分は軒先まで浸水した。水がひくと同時に、壊崩《くず》れた家が無数だった。船が海岸へ打ち上げられて、おもちゃ屋の店先における船のようであった。目ぬきの方でも、小学校が崩壊した。民家が倒れた。市民は外にも出られなかった。内にもいられなかった。
 A工場[#「A工場」は底本では「N工場」と誤記]の労働者も、この天災から逃避し得なかった。のみならず、彼らはその住む地域の関係上、より一層はなはだしい程度に、その惨害を受けた。彼らは少し受け取って多く養うために、安い家賃を選んだ。そこは海岸の低地であったんだ。
 A工場の労働者で、白水と同じ部に出ている男が、十分にその浸水の塩の辛さをなめさされた。彼の家は床上二尺浸った。畳がまさに汚濁せる潮水のために浸ろうとする時、まさにその時期にかっきり達している彼の妻君は、生理上の法則に従って、赤ん坊を分娩《ぶんべん》した。その産褥《さんじょく》の隣に、十二年以前からいかなる場所へでも横になって行く、痛風の彼の老母が臥《ふ》せっていた。
 太陽がだれをも待たないと同様な公平さと、正確さとで、その汚濁した潮水は、その水量を増して来た。叫喚があった。失心があった。泣き声が上がった。
 この労働者は、盥《たらい》に赤ん坊を入れた。そして押入れの上段に、できるだけ深く老母を押し込んだ。次に彼の妻君を、その手前に押し込んだ。その上で、この男は、自分自身赤ん坊をぼろでふいて、父親の正当なる責任を果たした。きわめて簡単|明瞭《めいり
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