たんだろうか? と考えることがあるんだよ。『おれはあの犬になりたい』と奴隷《どれい》は主人の犬を見て思わなかっただろうか。『おれは燕《つばめ》になりたい』と、だれかが残虐な牢獄《ろうごく》の窓にすがって思わなかっただろうか。『おれは猿《さる》になりたい』と、詰まらぬ因襲と制度とから、切腹を命じられた武士は思わなかっただろうか。『おれは豚になりたい』と乞食《こじき》の子は思ったことはないだろうか。小倉君。僕は、行く行くはそうなることを信じているが、今では、人間は万物の霊長でもなんでもないと思ってるよ」藤原は煙草《たばこ》に火をつけた。
 「それや僕もそう思うなあ。僕だって鱶《ふか》になりたい、と思ったことがあるもんなあ」と、波田は初めて、その突拍子《とっぴょうし》もない口をきった。
 「人間は万物の霊長であるないにかかわらず、人間だってことは僕は信じるよ。だが、人間が万物の霊長だってことは、僕も、もっとも僕は今まで、そのことをそんなふうに問題にしたことがなかったがね、人間は、ともかく賢い動物だとは思っていたよ。賢いくせに、詰まらぬところに力こぶを入れたり、どんな劣等動物でもしないような詰まらないことを、人間の特徴と誇りながらしたりする動物だろう、人間ってものは。ハハハハハハ」これが小倉の人間観であった。
 「人間が万物の霊長だなんて問題に、コビリつくことはもうよそう。が、全く人間も他の動物と同様に食うため、生殖するために、地上で蠢動《しゅんどう》してるんだね」藤原は人間であることを悲しむようにこういった。
 「食うことと、生殖することだけで活動してるから、それで蠢動してるというのかい」今度は小倉が皮肉な聞き手になった。
 「まあそうだね」と藤原はちょっと苦笑した。
 「ところが君、ブルジョアはそれ以上の高利貸的官能のために、あるいはまた倒錯症的欲望のために、食わせないこと、と、生殖させないこととで蠢動してるんじゃないのかい」といって小倉は大声立てて笑ったが、フト気がついたように、ボーイ長の方を見やって口をつぐんだ。
 「安井君、痛むだろうね」と、波田はボーイ長にきいた。
 「ええ、痛くて、痛くて、他の人の痛くないのが不思議で……」と答えた。
 「困ったね。航海中だから、まあ、できないだろうけれど仕方がないから、我慢するんだね。横浜へついたら病院へ入院ができるさ」と波田が慰めた。
 「ところが、できないんだ。ボーイ長はまだ雇い入れがしてないんだ。これは確かに船長の失敗なんだ。この点から攻撃すれば、解雇手当や負傷手当などはもちろん、取りうると思うんだ」藤原はこういった。
 「雇い入れがしてなくったって、入院はできるさ。この重傷を入院ささんてことはないさ。それに、雇い入れと、負傷とは、どんな関係がありようもないじゃないかね」波田は、藤原が入院を拒みでもするように食ってかかった。
 セーラーの三上《みかみ》や西沢《にしざわ》、水夫長、大工、コックなどは、もうその寝床でグーグーいびきをかいていた。全く、何か特に興奮することでもない時は、食後は非常に眠いのであった。全く目があかないほど眠いのであった。幼子《おさなご》が夕食を食べながら居眠るように、幾日か続いた強行軍で、兵士が歩きながら眠るように、それと同じく眠いのであった。けれども、この三人は、今食後十分か二十分の熟眠どころではないのだった。今や、彼らはボーイ長が雇い入れなしに使役されていたという事実について、彼らの意見を発表し合う必要が生じたのであった。
 「そんなことは、海員手帳にチャンと書いてあるこった。議論の余地なんぞありゃしないさ」と、ストキの藤原はいった。(事実それは海員手帳に記入されてあることであった。そして、いかなる場合でも船長はこれを怠ってはならないのであった。法文の上でも、実際から行ってもそれはそうでなければならず、またそうあるべきであるのだったが、さて、それがそうされなかった場合は問題はどうなるかということは、ほぼ、そうあるべき通りに、行かないのであった。要するに、理論からも、実際からも、人間は、平等に、幸福でなければ困るが、一部の人間は、平等は困る。おれたちだけのぜいたくがいいんだ。搾取の痛快味こそ生活の意義だというので、わかり切ったことがわからなくなるように、ボーイ長の場合においても、明白に、ボーイ長が有利な立場にあるにもかかわらず、その全体の利益と権利とをフイにするところの一要素である「労働者」で、ボーイ長があった。だから、これは、それほど簡単に、数学的の結果を見ることは困難であろう。その代わりに、法律的ないしは、商業会議所式の結果を見るであろう)と、三人が話し合いの末、そこまで落ち着いたのであった。
 「だから、おれたちは、これに対してはたたかわなけりゃならん
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