癪《しゃく》にさわることであったが、それは、彼がそれでパンを得ている以上、仕方のない災難なのであった。彼は、彼もパンのために、そのいやな仕事を持っていることを知ると同時に、もっと悪い条件の下《もと》にパンを求めているものがあり、それが「おもてのならずもの」どもであることを知らねばならないはずであった。ところが、彼は、ブルジョアが、彼と自分とを区別してるとすっかり同じように、彼とセーラーらとを区別していた。「おれは紳士だが、やつらは労働者だ」あるいはもっと正確には「おれは人間だが、やつらはセーラーだ」と。
 チーフメートは、限りなき嫌悪《けんお》の情を含みながら、ボーイ長をめちゃくちゃに、イヒチオールで塗りまくることを、(面倒臭いあまりに、そうするのではない)というふうにセーラーたちに見せたかった。彼はなさなければならないことの形式だけをやって、しかも感謝の念をセーラーたちから盗もうとさえたくらんだのであった。
 黒川鉄男《くろかわてつお》、これがチーフメートであった。黒川は、イヒチオールを塗りまくる間に、口をきくことは、それほど仕事の能率を妨げないし、また、それ以上仕事を、きたなくも困難にもしないと考えた。そして、彼がどんなに、この「虫けら」のようなボーイ長に対してさえ、人道的であるかを見せてやることはいい。と彼は考えた。
 「おもては全く、寒いね、そしてまるでまっ暗じゃないか」と黒川は口を切った。彼はボーイ長の胸部にイヒチオールを塗布しながらいった。
 「満船の時はどうも仕方がありません」と、ボースンは鞠躬如《きっきゅうじょ》として答えた。まるで、まるで、寒くて、暗くて、きたなくて、狭いのは、ボースン自身の罪ででもあるように。
 「これじゃいくらお前らでもたまらないなあ」
 「なあに、メートさん、新造船だから、いい方ですよ」とボースンは答えた。
 「暗くて寒いことあ今始まったこっちゃないや、おまけに風呂《ふろ》だってありゃしない、これでもおれらは、人間並みは、人間並みなのかい」と藤原が後ろから、燃えるような毒舌を打《ぶ》っつけた。
 チーフメートは早速《さっそく》方向転換の必要を痛感した。
 「ボーイ長の傷は存外軽くてすんだね。おれはもうとてもだめだと思っていたんだよ、命拾いしたわけだね」
 「そうさ、すぐくたばりゃもっと傷が軽いわけさ、手がかからねえからな」また藤原が口を出した。
 セーラーたちは、何か起こりはしないかと内心好奇心に駆られて「事」の起こるのを待っていた。
 「黙ってろ! よけいな口をたたくな!」チーフメートはとうとう爆発した。
 「黙ってろ? 黙るさ、だが、手前《てめえ》らにゃ手前らの命は大切でも、人間の命が、どのくらい大切かってことはわかる時はあるまいよ。ヘッ」藤原はそのまま自分の巣へ上がって、煙草《たばこ》に火をつけた。彼は明白にチーフメートに挑戦した。
 戦争はすぐ開かれるか、あとで開かれるか、どんな形において開かれるか、それは水夫ら全体を興奮の極に追い上げた。
 黒川一等運転手は彼の策戦が失敗したことを承認した。そして、多分この事はこれだけで片がつかないだろうと、いうこともわかった。長びくような事件にならねばよいがと彼は心配していた。特にそれは、この場合では、彼にとって絶対に都合のわるいことであった。彼は、黙って、早く手当てを済ますに限ると思ったので、その手当てを急いだ。
 かくして、イヒチオールはそれが、その本来塗らるべきところであろうと、または、傷をなして赤い肉の出たところであろうと、出血しているところであろうと、おかまいなしに塗りたくられた。また、いかなることが起きても、起こらなくても、ボーイ長の左半身全体をまっ黒くするということは、彼の三時間にわたる熟慮の結果であった。
 そしてチーフメート黒川鉄男は、そのプログラムに従って他意なくやってのけた。何ら親味な情からでもなく人間的な気持ちからでもなく、安井《やすい》――水夫見習い――は、その全半身にただ気やすめだけのイヒチオールを塗布された。それは義務を果たすための一つの対象にすぎなかった。
 安井はうめいた。「おかあさん、おかあさん」と叫んで救いを求めた。そして目を開いては、絶望のどん底にまっ暗になって落ち込んでしまった。
 彼は、からだの傷《いた》みと共に、堪《た》え得ぬ渇と飢えとに迫られていたのだった。

     六

 安井の手当てがすむと、水夫たちは、改めて、食卓についた。そして、いつでもは安井がボーイ長の職務として、食事の準備、あと片づけ等はするのであったが、今日《きょう》は、波田《はだ》が引き受けた。
 「安井君、何か食べたくはないかい」と、波田はボーイ長にきいた。
 「のどがかわいて、腹がすいて、たまらない」と、彼はかろうじて答
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