所兼監督の詰め所の交番ようのものが「置い」てあった。
 彼らは、石炭と海との親不知《おやしらず》、石炭と石炭との山の谿間《たにま》を通って、夕張《ゆうばり》炭山へ続いている鉄道線路を越して、室蘭の市街へ出た。その街《まち》は、昼も夜のように寂しい感じのする街であった。方角を忘れてしまったが、室蘭製鋼所のある反対側、桟橋を上がって右の方へ大通りをさびしく歩いて行くと、道が、上中下三段ぐらいに別れて、山の側面へ各《おのおの》の家の並びを持って並行についている。その中段の通りへ、東洋軒という、この町で見つけた初めビックリしたほど、立派な「文化的」な構えと「文化的」な菓子を売っている店があった。ガラス製の立派な箱が十五、六、その広い鋪《みせ》に並べてあって、その中には、外国人がクリスマスに食べるようなパイや、その他種々な生菓子が並べてあると、一方の棚《たな》の中には、栗饅頭《くりまんじゅう》や、金つばや、鹿《か》の子《こ》などという東京風の蒸し菓子が陳列してあった。その店の間から靴《くつ》を脱いで、階段をのぼると、二階二間がホールになっていた、はいって左側のは、大テーブルが一つと椅子《いす》がいくつか置いてあった。右の室は日本室で六畳であった。
 セーラーたちは、テーブルの方の室へ、油だらけな同勢を押し込んだ。けれども東洋軒は驚かなかったというのは、波田は、いつもその格好で来て、必ず二円ぐらいは食って行くからであった。
 テーブルには白い布がかけてあった。それを力をいれて指でこすると、黒くなるのであった。どんなに手に石鹸《せっけん》をつけて軽石でみがいたあとでも! 彼らはそれで用心をした。金つばと、栗饅頭とを小僧さんがお茶と一緒に持って来てくれた。
 彼らは、まるで飢饉《ききん》地方の住民のように、飛びついて、食べた。ことにその中でも、波田は仲間からさえ驚嘆されるのであった。しかし、彼らがそのものを要求するのは、囚人が甘いものを宝玉よりも数十倍も数千倍も、比較にならぬほど望み、ほしがるのと同じことだ。
 何かを人間から、奪うならば、たちまち奪われたものが、奪われたものにとっては一番切実な要求となり、願望となるのであろう。光線を奪えば光線、空気を奪えば空気を、活動、音声、嗜好品《しこうひん》、それらは、それが奪われるまでは第二義的であっても、奪われると同時に、それは一切第一義的な欲望に変わるのだ。自由を奪われたものは自由を生命より尊いと思うようになるものだ。
 菓子には、銀色の小さなフォークが楊枝《ようじ》代わりについていた。紅茶のコップは銀のスプーンがついていた。彼らは、これらの器物を汚《よご》さないように、気にしながら、たちまちのうちに第一の皿《さら》をあけて、第二番目が注文された。

     三三

 彼らは甘いものに対する渇望がややいやされた。そこでボーイ長へ持って帰る菓子が注文された。それから彼らは、ボーイ長の負傷について「とも」の取った態度について、われわれは、どういう形において抗議するか、また、三上のような、事件をひき起こさずには置かない、船長のめちゃくちゃな態度に対して、そしてこれらのことを交渉するならば、労働時間もハッキリと決めてもらうこと、それに賃銀がまるで相場はずれだから、も少し上げてもらうこと。――当時欧州大戦乱時代であって、石炭は水夫たちの寝るべき室にまで詰め込まれたほどであり、従って、汽船会社の利益は莫大《ばくだい》なものであった。――それに、日曜でも何でも出帆入港でとられれば、それで休日はおじゃんになるが、それは休日を翌日回しということにしてもらおう。これらのことは、ぜひ片をつけるべき性質のものであり、またつけねばならない状態に、われわれは追い迫られている。そこで、これらのことをいつ、交渉を始めるがいいかということの話が、彼らの間に、西沢によって口を切られて問題になった。
 「それは、交渉をチーフメーツに対してやるか、または最初っから船長に対してやるべきものか、それが問題だね」と小倉は言った。
 「もちろんそれは決定権を持っている船長との最初で最後の交渉にならねばならんだろう」藤原が答えた。
 「君の言うように、それが最初で最後であると言うならば、交渉を拒絶された場合には、どうなるんだろう」小倉はその点をおそれていた。もし交渉が不調になったりした場合、同盟下船とでもいうことになれば自分は明らかに乗船停止を食うだろう。そうすると、自分は高等海員の免状をとる資格がなくなってしまうんだ! 彼は苦しい立場にあった。彼はもし、高等海員になってやや多い収入を得ないならば、山陰道《さんいんどう》の山中で、冷酷な自然と、惨忍なる搾取との迫害から、その僻村《へきそん》全体が寒さのために凍死し、飢餓のために餓死しなければなら
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