へはいってはならない。そんなことはあまりにわかり切ったことなのだ。それはやっぱり、飯の食えない、健康体の人たち、すなわち労働者たちが、命じられている仕事の一つなのだ。
 藤原は、ボーイ長の寝箱のそばに腰をおろして、今日《きょう》の顛末《てんまつ》を話した。種々とその成り行きを述べて、こういった。
 「労働階級は、君の場合のように、ハッキリ現われた場合だけ、資本制生産のために、その生命の危難に面するということを覚《さと》るのだが、それは実はもうおそすぎてるんだ。賃銀労働者であることが、すでに生命を搾取されていることなんだ。だから、工場法にだって、生命を失った場合に、その生命に対する支払い額のミニマムが決めてあるじゃないか、それが、労働力、いいかえれば、人間の生命力の搾取に、その基礎を置いてなっているものであるならば、それが、どんな形において生命が消耗されようと、ブルジョアジーにとって、驚くべき理由がないだろう。君の生命は、君にとって永久に大切であるが、ブルジョアジーにとっては、君の生命が搾取されうる間だけ、役に立ちうるというだけなんだ! 産業予備軍は無数だ! 僕らは今、一切残らず、そういった境遇の下にあるんだ。そして、お互いにかみつき合おうとしている。ばかな話だ! 僕らは、生きる道を採るのだ。君の、今の直接の生きる道が医者にかかることにあるように、労働者階級は、階級としての、生命の道へまっしぐらに進むべき時なんだ!」
 それは、ボーイ長へ話してるというよりも、彼がひとり言をいってる、と言った方が正当であったくらいだった。
 波田、西沢、小倉などはまだ上陸をせずに、一緒に、彼の話を聞いていた。
 水夫では、波田、コーターマスターでは小倉が、今夜の当番であった。
 波田、小倉、西沢、藤原と、四人の中で、酒を飲む[#「飲む」は底本では「飯む」と誤記]のは西沢だけであった、あとの三人は酒よりも甘いものであった。特に波田と来ては、前にもいったように、菓子のために「身を持ちくずす」ほどだったのだ。
 「みんなで、東洋軒へ行って、お茶でも飲みながら、話をしようか」と、藤原は、皆が自分を待っててくれたのが、――上陸を十分延ばすことが、どんなにつらいことかは、読者は船長の例で知っているはずだ――気の毒になって、皆を菓子屋へ誘った。
 「よかろう」波田は、懐中の三円――その月末には二割の利子で月給から天引きされるところの借金――をおさえながら叫んだ。
 皆はそろって出かけた。出がけに、波田は、ボーイ長に言った。
 「すぐ帰って来るよ。菓子を買って来るぜ、待ってたまえよ。そして、明日《あす》は、午前中に病院へ行くんだ! すぐ帰るからね」彼は三人のあとを追っかけて、桟橋へとタラップを、猿《さる》のように伝って飛んで降りた。
 西沢たち三人はタラップを降り切ったところで彼を待っていた。
 それは寒い夜であった。水夫たちは不完全な防寒具で、皆震え上がっていた。オーバーを持っていたのは藤原と小倉とだけであった。彼らは、どこかの古着屋で、それを買ったのだ。藤原のは上着の大き過ぎるくらいに小さかったし、小倉のは米一斗袋に三升詰めたくらいにダブダブしていた。
 彼らは馬蹄型《ばていがた[#「ばていがた」は底本では「ばていがい」と誤記]》の海岸を一列に並んで、黙々として歩いた。歯が痛かった。風は頬《ほほ》を透《とお》して、歯の神経をひどく刺激するのであった。水夫たちは、彼らが貧乏であるために、必要以上に苦しまねばならないことを思っていた。
 「メリヤスの新しいシャツが一枚あれば」波田は「どのくらい暖かいだろうなあ」と思いながら油と垢《あか》とでガワガワになったズボンのポケットの中で、拳固《げんこ》を力一杯で握り固めたり、延ばしたりした。
 西沢はオーバーがない代わりに、スェーターを着込んでいた。それは、「買いかぶった」綿製の物であった。「随分商人はひどいことをしやがる」もっとも、彼はそれに一円二十銭を夜店で出したということは、あまり吹聴《ふいちょう》はしない方が賢いと思っていた。
 こうしてめいめいがはなはだしく貧弱な防寒具の下《もと》に、はなはだしく寒い、寂しい、荒涼たる、一口にいえば、といっても、いいようのない、そうだ、それは「死」にいやでも応でも考えを押しつけねば置かない関係、すなわち、プロレタリア対寒冷! の、本能的の寂しさの中を、四人は、港の街《まち》のさびしい通りの、明るい二階で暖かいお茶と、お菓子とが待ってることを思って急いで行くのであった。
 左側は、駅から迂回《うかい》して来た鉄路のある山腹の切断面、それから高架線、それらが万寿のかかってる方へ並行していた。積まれた石炭の上には雪がすっかり塗り上げをしていた。ところどころに、人足《にんそく》の茶飲み
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