に送ろうと思って、収入がいいという話を聞いたから、船に乗ったらこんな始末だろう。今後どうしてやって行くかまるでわからなくなってしまったよ。こんな時はいくら貧乏してもやっぱり、とうさんやかあさんがいると、気強いけれどなあ」と語って彼はホロリとした。
労働力を売って生活するこの青年も、今その売ろうとする労働力が、大きな障害を与えられたことについては、どこかはっきりしない憤懣《ふんまん》を心の底に感ずるのであった。彼は、負傷後、イヒチオールを二、三回塗布され、足のガーゼを二、三度自分で取り換えただけであった。彼は傷の疼痛《とうつう》のために、非常にやせてしまった。彼はそのいたさに、彼の神経を極度に疲労させた。
水夫たちが、仕事に出て行って、おもてにだれもいなくなると、彼は、今までためていた苦痛の叫びをあげるのであった。彼は、出任せに何でも叫んだ。そして自分の声に一生懸命聞き入った。彼の足の痛みは負傷後五、六時間を経て、はなはだしくなって来た。彼は、そのぬれた麩《ふ》のように力なく疲れたからだを、寝箱の中から危うくデッキへ落ちそうにまでもだえ狂った。彼は狂人のように叫んだ。そして、それは、彼自身でも、疼痛に対しては、非常にハッキリした意識を持っていたが、あまりに、そちらの方へのみあらゆる神経を集めたので、自分のもだえや叫喚には、ボンヤリしているのだった。
水夫らは帰って来て、この苦悶《くもん》のさまを見ると「あまりあばれると、かえって傷が悪くなるから、じっと我慢しておれ」と、慰めるよりほかに道がなかった。水夫たちはボーイ長の負傷に対して、非常な嫌悪《けんお》の念を一様に感じていた。それは、彼がけがをしたのが、彼の過失だからというのではなかった。また、負傷したのが彼だからというのでもなかった。それは、ボーイ長が自分の負傷について、神経を全く疲労させ、身をのろい世をのろい、ついには絶望的に自分の足までものろうような、それと全く同じ感情が、水夫らにあったからであった。水夫らは、それを意識するとしないとにかかわらず、そこに、泣きわめき、狂い叫び、のた打ち回る自分自身の運命を、朝も夜も、食事にも眠りにも、焼けた鏝《こて》でも当てられるように、ジリジリと感じないではいられなかったからである。それから逃《のが》れる術《すべ》はなかったのである。
水夫らは、自分の負傷のように、ボーイ長の負傷によって陰気にされていた。そして自分の負傷のように、いらいらさせられた。彼らは、それから逃れようとして、あせっていた。冷淡な、無関心な態度は、彼らが鈍らされた神経を持っていることと、も一つは「なれている」ことと、今一つは、その自分自身の運命を、あまりにハッキリ見せつけられることから、免れようとする心から出たことであった。
波田は、石油|罐《かん》の二つに切ったので、便器をこしらえて、彼と、ボーイ長の寝箱とが※[#「※」は「L」を180度回転させた形、142−9]《かぎ》形をなしているすみへ置いてやった。
安井は、だれも見えなくなると、その便器へ用を足した。その時の彼の努力は全くおびただしいものであった。彼は、用を達《た》したあとは、疲労と疼痛《とうつう》とで失心したような状態に陥るのであった。
彼は、一切のことが、二度目であるというような幻覚にとらわれるのであった。それはちょうど、濁った方解石を透《とお》して物を見るように、一切がボンヤリして二重に見えるのであった。彼は、ズッと遠い以前からの歴史も、また、たった今何か考えた刹那的《せつなてき》な考えも、二度目であるように思った。その一度は、どこで経験し、どこで考えたかということを、彼は考えさかのぼるのであった。そうして、そこには、彼の以前の生活があった。ひもじい、寒い小作人の子としての絶え間なき窮乏の生活が、それも二重の形をもって展開されるのであった。小学校時代の暑中休暇のことが、彼の今の負傷して寝ている状態と、ゴッチャになってしまったりするのだった。「ちょうどおれは二度目だ」と彼はぼんやりけがのことを考えているのであった。「おれはあの時、ほかのだれもが休んでいるのにおれだけは、父《ちゃ》んと二人《ふたり》で田の草をとりに出かけたっけ。休まねばならぬ時に、おれは、煮えたぎる田の水の中で草とりをしたっけ。おれは休む時を持って生まれなかった。だが、あの時おれはけがをしたっけ。そして休んだっけ」それから、彼の哀れな、疲れ切った意識は、彼を暑中休暇の田の草とりから、彼を厳寒の万寿丸へ引き戻してしまった。そして彼はまたうめきもだえ狂わねばならなかった。
彼はその疼痛の絶頂においては、感ずるのであった。
「こんな苦痛をハッキリ味わわねばならないってのは、何て惨酷なことだろう。それよりも、もっとひどい苦痛を、も
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