用意して置けと命じた。ボースンはおもてへ帰って来て「今からハッチの蓋《ふた》をとるぞ」
 そこで水夫らはデッキへと出て行った。

     二七

 おもてはストキから、ボースン、大工まで、全部出て行ったので、あとは傷を負って、むなしく一週間余りを暗室――それはほとんど暗室であった――の、寝箱の中でもだえ苦しんだ、ボーイ長の安井と、おもての通い船のおやじと、それから、沖売ろうのその娘とだけになった。
 沖売ろうの娘は、波田の寝箱の縁へ腰かけていた。サンパンの船頭は、ストーヴの前へ腰をおろして、皆黙々としていた。
 おもての、デッキでは、ビームがデッキへ打《ぶ》っ突かる音や、ウインチの回る音などで、まるで船全体が太鼓ででもあるように響きわたった。
 ボーイ長は、自分では大して自由にならないからだを持ち扱って退屈し切っていた。
 「ねえさん、わしに少し菓子をくれないか」ボーイ長は労《つか》れ切った声でささやくようにいった。
 「アア、びっくらしたよう。だれかおるだがよ、ここに」と彼女は飛び上がって、ボーイ長の暗室をのぞいた。そこにはボーイ長が確かに寝ているのであった。
 「あ、見習いさんでねえか、びっくりしただがよ」彼女は菓子箱を持って来て、ボーイ長の前へひろげて見せた。
 ボーイ長はそれを三十銭買った。そうして、うまそうに、むさぼり食べるのであった。
 「船頭さん! おれ今日《きょう》陸へ上がりたいが連れてっておくれよ」ボーイ長は船頭へ声をかけた。
 「ああ、いいとも、お女郎買いかい?」船頭はすばらしく大きいからだの、気のいい五十格好のじいさんだった。
 「うんにゃ。わしゃけがしたので、病院へ行くんだ」彼は今度こそ病院へ行けると思った。
 ボーイ長は思うのであった。「わしのけがをしたということは、もうだれも彼もみな忘れてしまっているのだろう。わしのけがをしたことは、全く他の人たちにとっては些細《ささい》なことなんだろう。だが、それやあまり不人情だろうと思われる。ことに、私の足は膿《う》んでしまって、痛くてたまらないんだ。わしは今日は、何としても船長さんに願って、病院へ入院させてもらわにゃならん。私のからだは、私が大切にしないでだれが大切にしてくれ手があろうか、私は船頭さんに病院まで負《おぶ》ってってもらおう。私はもう、何から何まで自分でやらなけれやだめだと知ったんだ」
 「船頭さん、室蘭にいい病院があるの?」ボーイ長はたずねた。
 「ああ、いい病院があるよ、室蘭病院てのが、山の手の高いところにあるよ」
 「そこまで、波止場から、どのくらいの道程《みちのり》があるの」
 「そうさなあ、十二、三町ぐらいなもんだろうなあ」
 それではとても一人《ひとり》の力で負《おぶ》ってなんぞ行けない。といって、ここでは橇《そり》ででもなければとてもだめだが、それもちょっとあるまいし、もし船長が身を入れてくれないと、今度こそは、自分は航海中に死なねばならないだろう。
 「市立病院かい、それは?」ボーイ長はたずねた。
 「市立じゃないけれど、公立だよ」船頭さんは答えた。「だけど、どうしてまたけがなどしたのかい」ときいた。
 「ほらこの前の航海ね。室蘭を出帆する日からしてえらい暴化《しけ》だったろう。あの航海に、舵機《だき》の鎖とカバーの間に食い込まれたんだよ」ボーイ長はあの時の様子を、ここで初めて語り始めた。
 「その日、私はともの倉庫にキャベツを出しに行ったんだよ。おもてのおやじが、とって来いというからね。で、キャベツを三つ笊《ざる》へ入れて、コック部屋《べや》の方へデッキを歩いてると、船が急に傾いたんで、左の足をウンと踏んばったんだよ。それがねちょうど都合悪くデッキが凍ってたもんだからすべって、つい鎖の方まではいってしまったんだよ。その時に舵機ががらがらと動いたもんだから、私ゃ鎖に食い込まれてしまって、カバーの中へからだを半分入れたらしいんだよ。そしてうつむけに引きずられたもんだから、胸をひどくデッキへたたきつけたらしいんだよ。わしは、ボーッとして気を失ってたから、足を食い込まれて、ひどくやられたことだけは知っていたんだけれど、こんなに胸や手やなどが痛むとは、助けられてからでも思わなかったんだよ。だけど、足はもうすっかりなおっても、ビッコを引かなけれや歩けないだろうと思うと、どうしていいかわからなくなるよ。おらあ、からだよりほかにもとでがねえからなあ、びっこをひくようになっちゃ、車も曳《ひ》けないからねえ、そうかって学問をする学資はないしね、家にゃまだ子供が八人もいて、小作のおやじはおふくろと一緒に、それこそまっ黒になって働いても、どうしてもやって行けねえで、小さな子まで子守奉公《こもりぼうこう》に出してあるんだよ。だからおれ、少しでもかせいで家
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