人の船員たちが今休んでいるのであった。
「おばさんのご亭、まだ帰らないかい?」三上はきいた。
「帰らないよ、まだ。向こうで髪の毛の赤い、青い目の女房でも持ってるだろうよ」
「そのつもりで浮気をしてると、えらいことになるぜ。ハッハハハハ」
「相手さえあればね。ホホホホホ」
「僕は下船したんだから、当分また厄介になるよ。頼むよ、いいかい。チョッと出かけて来るから、おやじが帰ったらそういっといとおくれよ」三上が靴《くつ》をはいてると、
「そして荷物は? 小屋? おやじさんこのごろ工面がよくないんだから、十でも十五でも入れないと、だめだよ。わかってるね」と、おばさんは、だめを押した。前金を十円か十五円は入れなけりゃ、とても置かないというのであった。
「大丈夫だよ。そんなこたあ、いうだけ野暮《やぼ》さ。ヘッヘッヘヘヘヘ」三上は表へ出て行った。
彼は近所の質屋へ行った。それは彼の常取引の質店であった。
「いらっしゃい、しばらくで、お品物は?」主人はきいた。
「実はね。品物はここまで持って来られないんだが、二日だけ、伝馬《てんま》で金を借りたいんだがね。ボースンが、融通してもらったところへ、現金を返すんだが、それが今足りないんだ。船は今ドックにはいってる××丸だから、伝馬を泛《うか》してあるんだ。それで、二日ばかり借りたいというんだがね。利息はいくら高くてもかまわないってんだ。どうだろう。見に行ってもらえんかね。そこにつないであるんだが」三上は、これを昨夜伝馬に乗る前から計画していたのであった。そして彼は、その計画を完全に信頼していたのであった。
「伝馬じゃちょっと困りますね。蔵《くら》にはいりませんからね。それに船の伝馬じゃなおさら、何とも仕方がありませんね。どうぞ、それはまあ、何かまた別な品ででもございましたら」主人は一も二もなく断わってしまった。
三上は、驚いた。彼は驚いたのである。彼は、まだ今度の事ほど綿密に、長い間かかって、企てたことはなかった。それは室蘭《むろらん》に碇泊《ていはく》しているころからの計画であった。その計画は、サンパンを占領するという点までは、彼の計画どおりに進行したのである。であるのに、最後の点に至って、これほど何でもない問題が拒まれるという、その事が彼を驚かした。「だが、この家は伝馬を扱うのになれていないと見える」と、すぐ、彼は思いかえした。
「さよなら」彼はそこを飛び出した。そして今までより少し彼はあわてて歩いた。彼は歩きながら、これほどの船つき場でありながら、一軒もサンパン屋が店を出していないことを不便がった。「靴でさえ中古の夜店を出してるのに――」彼は全く残念であった。
彼はその日一日、ありとあらゆる質屋で断わられ、貸舟屋で断わられ、全くみじめな気持ちになってしまった。
「伝馬は売れねえや、急にはだめだな、だが、おやじになら売れるだろう」小突きまわされた犬のように、身も心もヘトヘトになりながら、彼はボーレンのおやじを目標に持って来た。彼には絶望がなかった。
彼は夜十一時ごろ、ボーレンの表戸をあけた。
おやじは起きていた。そして、彼が上がって行くのをじろりとながめた。三上は、長火鉢の前へ、すわって、煙草に火をつけた。そこは六畳の間であった。すみの方には、船員が二人《ふたり》寝ていた。
おやじはしばらく黙って、これも煙草を吸っていた。
「おやじさん。おらあ今日下船したぜ。また、しばらく頼むよ」三上は切り出した。
「下船した。で、また船に乗る気なのかい」おやじは妙なふうに返事をした。
船乗りが、下船してボーレンに休めば、次の船に乗るまでの間、そこに休んでその間に、口をさがすのが、その唯一の道であった。
「ああ、万寿丸にゃもうあきたからなあ、今度はほんとうの遠洋航路だ」どうも、だが、おやじめ様子が怪しいぞ、今日万寿に行ったんじゃないかな、と思ったが、できるまで空っとぼけた方がいいと思いついた。
「そうか、遠洋航路もいいだろう。だが、遠洋航路は履歴が美しくないといけないな。おまえの手帳をちょっと見せな、預かっとこう」
手練の手裏剣見事に三上の胸元を刺した。
「あ! 船員手帳!」と驚いて三上は膝《ひざ》をたたいた。「船に忘れて来たぞ」
「冗談いっちゃいけない。三上、おれは今日万寿で、すっかり様子を聞いて来たんだぞ。いい加減にしろ、伝馬まで乗り逃げやりやがって。どうしたい伝馬なんか」
「ええ! こうなりゃ癪《しゃく》だ、いっちまえ、畜生! 伝馬はつないであるよ」
「どこにあるんだい」
「おやじのサンパンのつないであるところさ」
「何だってあんな邪魔っけなものを、のろのろと漕《こ》いで来たんだい」
「売り飛ばすつもりなんだ!」
「買い手はあるつもりかい」
前へ
次へ
全87ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
葉山 嘉樹 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング