ほんとうのことをやってもかまわないだろうか。と、小倉はまだ考えを決め得ずにいるのだった。
「藤原のいうことは、昨夜《ゆうべ》の女のいったところと、どこか似てるところがあるぞ」と、小倉は、この時フト思った。「あの女は宝玉だ! だが、今はそれどころじゃない、だが、あの女がおれのことを『三上さんよりも穀つぶしよ、あんたは』といったっけなあ、だがそれや全くだった。おれはどうだ、自分のことさえ自分で考えがまるっきりつかないじゃないか、三上は一人で立派にやって行った。おれには、おれの頭にそむいて、尻尾《しっぽ》を振るブルジョア的の取引気分があるんだ。それが、すっかり、おれを台なしにするんだ、おれはなぜ藤原君のいうように、頭の命ずる通りに動かないのだろう。ああ、やっぱりおれはなめくじなんだ! おれは、労働者階級の悲惨を、決断と勇気と犠牲のないことに帰しているが、就中《なかんずく》、このおれがその中の最なるものだ。労働者階級を裏切る唯一の卑怯者《ひきょうもの》の典型を、おれはおれ自身の中に見いだした。おれは、思想として全体を憤慨する前に、おれ自身の恥さらしな、憶病者の、事大主義者の、裏切り者の、利己主義者の、資本主義の番頭のおれを、まず血祭りに上げねばならぬ。おれは、おれの村を、ブルジョアの番頭になれば、救えるという謬見《びゅうけん》を捨て去るべきだ。おれの救わなければならないのは、おれの村だけじゃなくて、この地上の一切だ」
小倉は元気よく、まるで今にも、ブルジョアに出っくわしさえすれば飛びつきそうに、こう考えたが、それは彼には絶対に不可能な事であった。彼は、依然事大主義者だった。一切が腐ってしまっても、円《まる》くさえあればそれで、「安心」なのだった。
小倉はその性格が煮え切らないところから、この事件の進展に対し、何らの役目を勤めることのできない一の木偶《でく》の坊《ぼう》に過ぎなかった。
三上が船長に与えた、侮辱は、下級船員全体への復讐《ふくしゅう》の形を船長によって取られた。
そして、この事が、ここに述べるところの、同盟|罷業《ひぎょう》を惹起《じゃっき》した。ブルジョアの番頭対、プロレタリア! 船では、ブルジョアは決して傭《やと》い主《ぬし》としてのその姿を労働者の前へ現わさなかった。
二三
三上は、伝馬を押して、一度|神奈川《かながわ》沖まで出たが、また引きかえして、堀川《ほりかわ》へはいった。彼は神奈川沖へ出た時に、伝馬にペンキで書かれてあった万寿丸を、シーナイフで削り取ってしまった。
彼は、翁町《おきなまち》の、彼が泊まりつけのボーレンの、サンパンのつながれる場所へ、その伝馬をつないだ。そして、小林という、そのボーレンへ、のこのこ上がって行った。
ボーレンのおやじは、笊《ざる》のような彼の唯一の財産なるサンパンに、チャンス取りに泊まってる宿料なしの水夫を船頭にして、沖へとチャンスを取りに出かけた留守であった。
おばさんはいた。下手《へた》な田舎芝居《いなかしばい》の女形《おやま》を思わせる色の黒い、やせたヒョロヒョロの、南瓜《とうなす》のしなびた花のような、女郎上がりのおばさんだった。一口にいえば「サンマ」のおばさんだった。このおばさんはいた。
このおばさんはおやじのおかみさんではなかった。おやじの世話で船に乗って、今外国船に乗って、ここ四年ほど前ハンブルグから、近いうちに帰るという手紙と、金二百円とを送ってよこした水夫の、おかみさんだった。
そのおかみさんが、今帰るか、今帰るかと待ってるうちに、二百円と一年とが消えてなくなってしまった。そこで、三年ばかり前から、やもめの、ここのおやじのところへ、飯たきに来て、亭主の帰るのを「網を張って」待ってるのであった。
「まあ、三上さんだったわね。どうしたの、いついらしったの?」
三上が、のっそりはいったのを見たおばさんは、長火鉢《ながひばち》の前に吸いかけの長煙管《ながぎせる》を置いて、くるりと入り口の方を振りかえって、そういった。
「おやじはチャンス取りか」三上はブッキラ棒にきいた。
「ええ、相変わらず、急いでるの? それともゆっくりできて?」とおばさんはきいた。
「急がねえよ、上がらしてもらおう」といって、彼はもうそこへ上がってるんだったが、長火鉢の前の座ぶとんの上へ「上がらしてもらって」おばさんの長煙管で、スパスパと煙草《たばこ》を吸い始めた。
「随分ごぶさたね、三上さん。あっちにはこんなにごぶさたしやしないでしょうね。おこられるからね」
「真金町《まがねちょう》? 毎航海さ、おやじはおそくなるだろうね。今幾人いる」
「十一人、暮れに迫って、口はないし、はいるところはないし、おやじさん、困っててよ」と指で丸をこしらえて見せた。十一
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