ょう》なる事実であったが、その[#「その」は筑摩版では「それが」]簡単であっても、その事のために入費がかかるということも明らかなことだった。ところが、どうしてこの男が母の薬代や妻のあと始末、それから子供への手当て、産婆への報礼などをすることができよう。それどころではなかった。彼は今まで、家族を養っていたA工場にも、出るに出られないありさまだった。畳はビショビショにぬれていた。床の下は魚《さかな》でも住んでいそうだった。便所と井戸水とが同居したのに、まだそれが掃除《そうじ》されていない。
 もし、この男が苦労になれなかったか、貧乏になれなかったかで、ちょっと神経質ででもあったのならば、僕らが考えても、首をくくった方が気がきいていそうに思われるくらいなんだ。ところが、この男は我慢したんだ。あとで知る事だが、この男は我慢するんだ、何でも、癪《しゃく》にさわるくらい我慢強いんだ。と僕らは、そう思ってたんだ。ところがどうだろう。まるっ切りやつは感じないんだ。
 彼は、この惨憺《さんたん》たる事実に対して、何物をも感じなかったようだった。ただ、金が少々あればいいのだった。それが万事を解決するだろう。君、長い間、人間はあまりみじめであると、感受性を全然失ってしまうものらしいんだ。この兄弟なんぞもやっぱりその一例だと見れる。人間がその苦痛に対して、ならされてしまう――何の必要もないのに――それが、どんなことだと君は思うんだ。馬が去勢されて生殖欲がなくなるように、人間が、縛りつけられて、型に押し込まれて、自由を奪われてしまった去勢された馬のように、感受性を失ってしまう。自分がどんな奴隷《どれい》だか知らずに、働けば楽になると思って働く。労働者たちは、皆この感受性を麻痺《まひ》させられてしまったのだ。労働者は働けば働くほど、自分を搾《しぼ》る資本に、それだけ多くの余剰労働は搾取され、資本を増大せしめるんだ。
 この去勢された、馬のようになり切った兄弟は、二、三日の後会社へ行ったんだ。
 『積善会の積立金をいただきとうございますが、こうこういうわけで』と事実の[#「事実の」は筑摩版では「事実」]ありのままを純客観的に――彼には、今では、彼自身のことが客観的にしか見えなくなったようだった――くどくどと述べ立てたんだ。
 この積善会ってのはね、労働者の賃銀の百分の五を毎月強制積み立てをさせる
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